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【レオン・ロッシュ】
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幕政改革にのめり込むロッシュ
ロッシュの示した国政改革案は、フランス第二帝政をモデルとしたものでした。
「ナポレオン3世のようにおやりなさい」
そうロッシュは諭します。
身分制度改革。
陸海軍の整備。
経済改革。
海外貿易の促進……要するに明治政府と同じ方針です。
倒幕などなくても、日本は近代化が可能でした。
600万ドルにもおよぶ対日借款、武器売買契約も結び、幕府は急速に力を盛り返していきます。
なんせ、このとき幕府が買い取った後装式シャスポー銃は幕末最強の歩兵銃でした。
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一方でイギリスは、内政不干渉を表向き主張しながら、薩摩藩と手を結び、倒幕計画を進めました。
フランスと近い幕府を倒し、イギリスの意のままに動く新国家建設を目論んでいたのです。
そのためにパークスは「将軍は日本の統治者でない」と主張し、ロッシュが幼い帝を操る前に釘を刺す――そんな攻防がありました。
するとフランス本国は、徐々にロッシュに対して不信感を抱き始めます(1866年に外相がリュイエからムスティエに交代)。
日本に投資して見返りはあるのか?
個人的な思い入れで肩入れしてるのでは?
それでもロッシュは断固として慶喜を支持。
しかし思わぬ綻びが彼の母国・フランスで待ち受けておりました。
日仏関係強化の目玉として派遣され、留学を希望していた慶喜の弟・昭武一行がパリ万博に参加します。
このとき、イギリスは抜け目なく薩摩藩と連携し、幕府権威失墜をはかる工作をします。万博に幕府のみならず琉球国名目で薩摩藩も出展し、混乱を生じさせたのです。
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フランスのジャーナリズムは幕府が信頼をできるのかとバッシングを始めます。
しかも、ロッシュの通訳を務めたカションまでそうした論に同調するような投書をしてしまった。
こうした混乱の中、600万ドルの対日借款も取り消されてしまい、破綻は決定的なものとなります。
フランスは日本のロッシュに帰国命令を出しました。
しかし、それが届く前に政変が起こるのです。
倒幕と日仏蜜月関係の終わり
慶応3年(1867年)末――事態はおそるべき速さで進んでゆきます。
土佐藩は後藤象二郎らが先頭に立ち、大政奉還を進めてゆきます。
武力を用いることなく政治体制を改革する案でした。
そう簡単に慶喜が権力を手放すものか?
そう疑念が抱かれていたものの、慶喜はこれを受け入れます。
慶喜からすれば、フランスの提案に従い、近代化を進めてきた自負があります。己の力を抜きにして近代化ができてたまるか。そう思っていてもおかしくはありませんでした。
しかし、それも錦旗のひるがえる【鳥羽・伏見の戦い】で敗北するまでのこと。
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江戸へ逃げ帰った慶喜の元へ、ロッシュは駆けつけました。
どうすれば立て直しが図れるか?
そう問われ、ロッシュは提案します。
・全国の諸大名に大政奉還後の新体制を告知し、薩長の求めには応じない
・東海道を遮断し、江戸湾の入り口に艦隊と砲台を配置し敵を防ぐ
・現存の歩兵のみならず、フランス人士官が指揮をする別種の舞台を組織する
・予算がなければ軍備が整えられない。財政改革が必要だ。そのためにはまず信頼関係を……フランスに借金を返済しましょう!
抗戦を避けた慶喜の表向きの言い分としては「天子様に弓引くなぞできぬ」というものがあります。
しかし素直に信じていいかどうかはわかりません。
それよりも、恩師であるロッシュに失望した気持ちがあったとしてもおかしくはありません。
露骨にフランスが軍隊に干渉する。そして借金は取り立てる。
甘い夢とロマンは消え去り、国益を重視する恩師ロッシュの裏の顔が見えた……そのことに失望してもおかしくはありません。
このあと慶喜の助命嘆願において重要な役割を果たし、勝海舟に対し「交渉が失敗したら軍艦で我が国まで送り届けましょう」と請け負ったのは、皮肉にもパークスでした。
ロッシュの宿敵がロッシュの愛弟子を助けるという、あまりに皮肉な展開。
どうにも皮肉な結末でもって、幕府は崩壊します。
日仏関係も様変わりします。
個人的な騎士道を重んじ、幕府軍と共闘したブリュネは厄介者扱いされ、敵対していた明治政府側と交渉することとなるのでした。
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元号が明治となった1868年、ロッシュは残務処理を終え、明治天皇に謁見を果たした後、フランスへ帰国を果たします。
その後、外交官を退職。
1900年、ボルドーでひっそりと息を引き取りました。享年90。
幕末の日仏関係に何が欠けていたのか?
幕末のイギリス人外交官には「ドライな印象」を受けます。
親日!
日本大好き!
といった甘い顔はまったくせず、自国の権益を第一とし、値踏しながら日本を見ていることがわかる。
一方でフランスはどうか?
ロッシュはかなり情熱的に日本と慶喜への愛を書き残しています。
カションと栗本鋤雲の交流も、互いへの敬愛が感じられます。
また、イギリスへの敵愾心も判断力を鈍らせていたのです。
外交というよりも、あたかも友情や恋愛のような、生々しい人間関係がそこにはあります。
しかし、皮肉にもそれが悪かったのかもしれません。
フランスは幕末外交においては後発であり、問題に取り組むにせよ、そもそもの時間が短かったといえます。
これはロッシュも意識しており、時間をかけて変えてゆくべきであると示していました……のみならず、冷静さの欠如が目立つのです。
ロッシュは本国から「個人的な思い入れで幕府を支持している」と懸念を抱かれています。
カションは幕府の使節団と些細なことで揉めた腹いせに、幕府に不利な新聞投稿をしてしまいます。
いずれにせよ、個人の感情暴走がそこにはありました。
ロッシュのそうした熱意は、本来ならばプラスの要素として働くこともありました。アルジェリア時代に現地有力者の信頼を勝ち得た背景には、そうした情熱と人間性があったはずです。
幕府がフランスと接近したのも、イギリスほど狡猾ではないと感じたことが背景としてあります。
ロッシュにせよ、カションにせよ、話術に長けていて、熱心に応じてくれる誠意を感じたからこそ信じられたのです。
しかし……。
それが行き過ぎて失敗したのなら、なんとも皮肉なことです。
かくして情熱的なロッシュと慶喜という師弟関係は崩壊。
日本という国は新たな師弟関係のもとで新たな国家建設を進めてゆきます。
イギリスです。
明治政府上層部すらおそれ、怒鳴り散らすパークスは、遠慮呵責なく明治政府の外交に干渉してきました。
幕末期は内政不干渉をうたっていたイギリス。明治になるや、途端に本性を見せてきました。
彼らが背後で目を光らせる中、明治日本が歩み始めたことを私達も記憶しておいた方が良さそうですね。
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文:小檜山青(note)
【参考文献】
鳴岩宗三 『レオン・ロッシュの選択 幕末日本とフランス外交』(→amazon)
富田仁『メルメ・カション―幕末フランス怪僧伝』(→amazon)
小野寺龍太『栗本鋤雲:大節を堅持した亡国の遺臣』(→amazon)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon)
安藤優一郎『幕末維新 消された歴史』(→amazon)
他