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【島津斉興】
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経済感覚に優れると同時に冷酷な判断も
そんなとき斉興に心強い味方が現れます。
「殿、こん調所笑左衛門がおいもす。共に、こん借財を何とかしていっもそか。殿のためなら、おや鬼にんもんで」
調所広郷――。
彼は、経済感覚に優れると同時に冷酷な判断もいとわない、デキる男でした。
借金帳消しのためならば、鬼と呼ばれてもいとわない本物の忠臣。西郷どんでは、竜雷太さんが演じられておりましたね。
西郷隆盛(西郷吉之助)とは立場が異なるため、なにやら悪い印象で描かれておりましたが現実はさにあらず。
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斉興と調所は、二人三脚による藩政改革を進め、ついに借金は何とかなりました。※詳細は上記の調所広郷記事をご参照ください
しかし、やっと一息つけると思ったら、今度は別の試練に襲われます。
【欧米列強による外圧】です。
水戸藩でも外国の脅威を感じていたが
1840年代ともなると、薩摩藩領であった琉球、しまいには鹿児島藩にまで、しばしば外国船が訪れるようになりました。
この時期から外国の脅威を感じていたのは、南に位置する薩摩藩と、海岸線が長いため、その機会が多かった水戸藩です。
幕末で、水戸と薩摩がやたらと目立つのは、早くから外敵にさらされ、改革が進んだためなのですね。
しかし、両者は全く異なる道を歩むから、歴史の不思議がここにあります。
水戸藩では、尊皇攘夷思想が発達。外国をトコトン嫌い、排除する思想が藩政にまでおよびました。
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一方薩摩では、斉興と調所が、西洋の技術や学問を取り入れる、富国強兵路線に舵を切ります。
ただし、ここで斉興と嫡子・島津斉彬の政策路線において対立が生じます。
斉興「確かに西洋の技術を学ばなければいけないけれども、財政を悪化させないためにもセーブが必要。セーブしないと、祖父・重豪の代のような借金地獄の再来になる」
斉彬「父上の改革は中途半端で時代遅れ。財政のことなんか気にしていたら駄目だ。金に糸目はつけずに、恐れずにガンガンやるべき」
父子の違いは、たとえばガラス製品の扱いにもあらわれています。
父・斉興はあくまで実用本位。薬品を入れる瓶を作ればいいと考えていたのに対して、子・斉彬は、華美なガラス製品を特産品にしようと考えました。
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質実剛健できまじめな父と、遊び心とアイデアにあふれた子という差ですね。
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