島津斉興

島津斉興/wikipediaより引用

幕末・維新

斉彬と久光の父・島津斉興~藩財政を立て直し薩摩躍進の礎を築いた功績に注目

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水戸藩でも外国の脅威を感じていたが

1840年代ともなると、薩摩藩領であった琉球、しまいには鹿児島藩にまで、しばしば外国船が訪れるようになりました。

この時期から外国の脅威を感じていたのは、南に位置する薩摩藩と、海岸線が長いため、その機会が多かった水戸藩です。

幕末で、水戸と薩摩がやたらと目立つのは、早くから外敵にさらされ、改革が進んだためなのですね。

しかし、両者は全く異なる道を歩むから、歴史の不思議がここにあります。

水戸藩では、尊皇攘夷思想が発達。外国をトコトン嫌い、排除する思想が藩政にまでおよびました。

その大本になったのが藤田東湖であり、徳川斉昭です。

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一方薩摩では、斉興と調所が、西洋の技術や学問を取り入れる、富国強兵路線に舵を切ります。

ただし、ここで斉興と嫡子・島津斉彬の政策路線において対立が生じます。

斉興「確かに西洋の技術を学ばなければいけないけれども、財政を悪化させないためにもセーブが必要。セーブしないと、祖父・重豪の代のような借金地獄の再来になる」

斉彬「父上の改革は中途半端で時代遅れ。財政のことなんか気にしていたら駄目だ。金に糸目はつけずに、恐れずにガンガンやるべき」

父子の違いは、たとえばガラス製品の扱いにもあらわれています。

父・斉興はあくまで実用本位。薬品を入れる瓶を作ればいいと考えていたのに対して、子・斉彬は、華美なガラス製品を特産品にしようと考えました。

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質実剛健できまじめな父と、遊び心とアイデアにあふれた子という差ですね。

 

要は、どれだけ投資をするか?の問題

大河ドラマ『西郷どん』では、単純に、

【保守的で西洋の脅威を知らない父・斉興】
vs
【その反対である子・斉彬】

そんな対立とされています。

しかし、対立軸は西洋化うんぬんではなく、金銭感覚の違いだったのです。

要は、どれだけ投資するか?という問題ですね。

これは現在の会社経営と何ら変わらない話でしょう。結局、始める前はどちらの考えが正しいか不明であり、結果を見て判断するしかありません。

そして、意外かもしれませんが、こと集成館事業に関しては島津斉彬が正しいとは言い切れないところがありまして。

例えば蒸気船を作ろうと大金を投じるも、後に【外国から買った方がよい】と方針転換せざるを得ないケースもあるなど、すべてがすべてOKというワケじゃないのです。

確かに薩摩切子は残り、芋焼酎も今なお同県の名産品になってます。

島津斉彬が遺した薩摩切子

しかし幕末維新時期においては、それが狙いでないことはご理解いただけるでしょう。

ゆえに、借金地獄を乗り切ったばかりで、膨大な投資は避けたい――そんな斉興の気持ちも理解できるところであります。

 

みんな不幸になってしまったお由羅騒動

そして嘉永2年(1849年)。

父子の対立が収まらない最中、おそるべき事件が起こりました。

お由羅騒動です。

赤山靭負切腹させられたり。

大久保利通(正助・一蔵)が謹慎、その父が流罪になったり。

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西郷どんでも取り上げられたこの事件。

そもそもは、度重なる斉彬の子供の夭折(若くして死ぬこと)を、斉興側室・お由羅の呪詛(呪い)のせいだと考えた斉彬一派が、お由羅の暗殺計画を立てたことに始まります。

斉彬派は、斉興追い落としのため、琉球との密貿易の件を幕府に密告。

斉興派では、主君をかばうため、側近の調所広郷が自害する事件も発生しました。

お由羅騒動なんて呼ばれておりますが、実はお由羅本人は関与してないんですね。

呪詛はあくまで噂であり、かなりとばっちりなネーミングです。

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事件は、幕府の耳にも届きました。

そして翌嘉永3年(1850年)、斉興は将軍・徳川家慶から「朱衣肩衝」という茶器を贈られるのです。

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要は、「隠居してこれでお茶でも飲んで、ゆっくりしなさい」という隠居勧告でして。

藩主に就任するときも、隠居させられるときも。何かとトラブル続きで大変苦労の多い人生でした。

斉彬と比較され、物語等では暗君扱いされがちな斉興。

実際は、薩摩藩飛躍の土台を築き上げた名君だったと言えましょう。

なお、1858年に島津斉彬が亡くなり、島津久光の息子・島津忠義が藩主の座に就くと、斉興は再び実権を握ります。

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そこで西郷隆盛らを廃し、集成館事業の見直しなどを進め、薩摩を以前の路線へ戻すべくよう働きかけている最中の翌1859年、ついに自らの死を迎えました。

享年69。

最後まで精力的に藩政に尽くした――。

斉興については、そんな評価があっても良いかもしれません。

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文:小檜山青
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【参考文献】
『別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯』(→amazon
『国史大辞典』

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