1867年2月15日(慶応3年1月11日)、徳川慶喜の弟である徳川昭武がフランスへ旅立ちました。
目的はパリ万国博覧会へ日本の産物を出品すること。
それだけでなく昭武自身が将来の日本のためヨーロッパで勉強を重ね、さらには、幕府の軍備や内政のため、フランス政府から借款する使命も帯びていました。
大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一もこの遣欧使節団に同行。
劇中でもその様子がクローズアップされましたが、いったい史実における「昭武と栄一の遣欧使節団」の旅程はどのようなものだったか?

徳川昭武/wikipediaより引用
決して順風満帆とは言えなかった、その旅程を振り返ってみましょう。
昭武一行はフランスでも注目
異国の幼さを残したプリンスこと徳川昭武は、フランスでも注目を集めました。
まだあどけない日本人が人気者となることはしばしばあり、万延元年遣米使節(1860年)では、現在ならば高校2年生の立石斧次郎が大注目を集めました。
“トミー”と愛称がつけられ、ファンレターやプレゼントが届く。
雑誌の表紙を飾り、しまいには『トミー・ポルカ』まで作られてしまう。そんなアイドル状態になったのですね。
このことを踏まえますと、若きプリンス昭武は抜群の人選であったといえます。
そんなあどけないプリンス率いる一行はどう受け止められたのでしょうか?
交通手段に悪戦苦闘
一行が乗り込んだ汽船アルフェー号は、1500トン、3本マストの郵便船でした。
初めて見た者からすれば大きくとも、実際にはそこまで大型とも言えません。
そして宿命は船酔い。
海水が窓から入るわ、ものがひっくり返るわ、それはもう大変。
気になるメニューは、今日でもおなじみの洋食です。
紅茶を飲み、ベーコンを食べ、パンにはバターをつけて食べる。
渋沢は「パンには牛乳を凝縮したもの(=バター)をつける。これがすごくおいしい!」と書き残しています。
船には医者が乗船しており、丁寧な診察をしてくれます。そんなサービスも感慨深いものでした。
現地に着いてから、蒸気機関車や馬車での移動も、興味深いものがあったのでした。
ちなみに福沢諭吉らは文久遣欧使節で食事に苦労した記録が残されています。
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アジア系や黒人に対する人種差別
そして清に立ち寄ると、そこで苦力(クーリー)とされる清人をみてショックを受けます。
白人からすればアジア人も有色人種です。
アメリカでは大陸横断鉄道のためにこうした苦力が導入され、大勢の犠牲を出しました。
「アジア人は黒人と同じで奴隷にしてもよい」という偏見は西洋諸国で根強く、幕末に仙台藩からアメリカに留学した高橋是清も、こき使われた挙句、奴隷として売買されてしまったほどです。

高橋是清/wikipediaより引用
昭武らの遣欧使節団もやがて気づきました。
どうやらフランスは利害を踏まえて支援しているだけで、差別的な本音もあるようだ――そんな記録が残されています。
こうしたアジア人への差別感情は【黄禍論】として残り、今も解消されていません。
ドラマでは描かれませんでしたが、社会情勢を踏まえ、その衝撃を想像することも重要でしょう。
ホテルとトイレで奮闘す
フランス各地に昭武一行が到着すると、すぐさま祝意が示されます。
これは電報で即座にニュースが届いていたからのこと。
一行はホテルに宿泊します。
格式をふまえ、フランスでも最高級のホテルが用意されたわけですが、何をするにも金が出ていきます。
部屋代、食事代、入浴、ろうそく、お茶……中でも日本人にとってショッキングであるのは、いちいち飲料水代を取られたことではないでしょうか。
お茶だけでなくお茶を入れるお湯、そして飲料水を消毒するアルコール。これが全て別料金とは!
実際にフランス人も困っていたことで、彼らは水の代わりにビールをよく飲んでいたのです。飲料水への感覚がまるで異なることは重要でしょう。
こうも金がかかってはかなわない。
そろばん勘定が得意な渋沢栄一らは下宿を探し、宿泊費を浮かせました。
そんな渋沢のフランス語学習は、本人の手帳として残っています。そこで彼が切実に悩んでいた問題がわかります。
「トイレ」です。
なんと4種類も「トイレに行きたい」とメモされています。中にはこんな婉曲表現も。
「私は“王様であろうと一人で行く場所(=トイレ)”に行きたいのです」
トイレの話をしますと、旅の間中、一行は下痢はじめ便通に悩まされました。異国の食物が口に合わないのです。
日本の食べ物に適した腸内環境であれば、そうなることはむしろ当然の現象でしょう。
現代人とは当然のことながら大きく異なることを考え、彼らの苦闘を想像するのがよいかもしれません。
ちなみに、明治になってからフランスに渡った川路利良は、我慢しきれず汽車から大便を投げ捨て、国際問題に発展しかけております。

川路利良/wikipediaより引用
水戸侍 海を超えてもやらかす
幕末は全国各藩で暴力傾向が強まり、中でも際立っていたのが水戸藩士です。
尊王攘夷に浸り切った水戸藩士をフランスに連れていく時点で嫌な予感しかしませんが、案の定やらかしました。
パリに到着しようが、髷姿に刀を持って、玄関先で警備をする。
昼間はおとなしいのに夜になると元気になり、腕まくりして歩き回る。
ロンドンのホテルでは、部屋から椅子やテーブルを撤去し、床の上で座って悠然としていたそうです。
誰もが西洋風紳士の振る舞いができたわけでもありません。むしろホームシックを手紙に綴っています。
無駄に滞在費はかかるし、外聞も悪い。
ぞろぞろと昭武について回る水戸藩士の人数を制限しようという案も出ました。
しかし、水戸藩士は怒る。
全員が揃わねば昭武を外に出さぬと言い張ります。
ここで駆り出されたのが渋沢です。

慶応3年(1867年)の渋沢栄一/wikipediaより引用
交替で3名までが警護するところまで、折衷案を出してなんとかしたのでした。
それでもまだ話し合いでなんとかなったのですから、日本国内での闘争に比べれば甚だおとなしいと言うべきでしょうか。
なお、この使節に同行した水戸藩士は帰国後もさしたる記録も残らず、わずかながら地元水戸において活躍したことがわかる程度です。
天狗党と諸生党による抗争が激化して、それどころじゃなかったのでしょう。
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滞在費がない
なかなか杜撰な幕府の旅行計画について、なんとなく不安になってきませんか?
案の定、滞在費が心もとなくなります。
今回の遣欧使節団は、フランスに借款を申し込む予定でした。
日本での軍備や内政に使うためですが、一部は彼らの旅費に充てることもできるでしょう。
その交渉のためにも幕府きってのフランス通である栗本鋤雲が途中から呼ばれます。

栗本鋤雲/wikipediaより引用
ドラマ『青天を衝け』では、渋沢がテキパキと金銭問題に取り組むような描かれ方でしたが、史実では栗本が中心となっています。
日本の産物で目を引いたのは?
幕府の目的は貿易――ゆえにパリ万博では日本の産物輸出をアピールすることとなりました。
では実際、パリ万博(パリ万国博覧会)で何を出品したのか?
以下にざっとリストを挙げてみましょう。
・象牙細工
・七宝焼
・青銅器
・陶磁器
・玉(貴石)
・蒔絵
・煙管
・根付
・浮世絵
・漆器
なかでも「ブラボー!」と外国人たちの目を引いたのが、細やかな細工品と漆器です。
漆器を”Japan”、磁器を”China”と呼ぶことからも、その人気とインパクトが窺えるでしょう。
さらには、茶店には江戸柳橋松葉茶屋から来た芸者のすみ、かね、さとがいました。
日本髪、振袖、丸帯で、江戸娘そのままのしぐさで日本茶やみりん酒(焼酎を甘く醸造したもの)を振舞います。
この3名に来場者の目は釘付け。
拡大鏡で観察する客がいるほか、「どうかその服を譲って!」と頼み込むお嬢様まで出たほどでした。
マダム貞奴の先輩ですね。1980年大河ドラマ『獅子の時代』のヒロイン・もんは、こうした芸者という設定でした。
そうした公式参加者以外にも、耳目を集め、金を稼いだ日本人はおります。
日本人曲芸師 パリで話題となる
当時、日本人でも尊王攘夷思想にハマっていたのは、水戸学をおさめた国粋主義者くらい。
庶民は「海外で何か儲けられないか?」と考えていました。
そんな野心を秘め、幕府から免状を得て、巡業に来たのがコマ廻しの松井源水一座です。
日本の大道芸は、サムライソードを用いたものもあり、パリっ子からすれば未知のものでした。
欧米の興行師も目をつけており、アメリカ経由で浜碇定吉一座もやってきます。
この浜碇一座に、昭武が報奨金を与えました。
すると『フィガロ』ら大手新聞が記事にして、また盛り上がる。
高野広八率いる一座も乗り込み、これまた大好評!
幕府とフランス、それに政府が出てくるよりも前に、国際的な興行師と芸人は手を組んでいました。
マスコミも儲かるからニュースにし、金が回るサイクルが形成されています。
パーっと稼ぎ、パーっと使う。
芸人たちは渋沢栄一もぞっこんになったパリの美女とも楽しみ、日記に記録を残したのでした。
そこには痛快な日本人の姿があったのです。
しかし同時に、幕府にとっては政権の行方をも左右させるような、不穏な動きもありました。
薩英の暗躍
生麦事件を経て、薩英戦争で手を組んだ薩摩とイギリス。
昭武一行は、薩英の暗躍に晒されます。
イギリスとしては南北戦争で余った武器を日本で売り捌き、自国に従順な政権を作り上げたい――そんな思惑から反幕府の立場をとります。

幕末維新の18年間、駐日英国公使を務めたハリー・パークス/Wikipediaより引用
そこにベルギー貴族・モンブラン伯というあやしげな人物も絡んできます。
彼は幕府に対して一方的な私怨を抱き、潰そうと画策していたのです。
こうした妨害行為は、メディアを通して行われました。
「今フランスにいるプリンスは果たして権力を持っているのか? 信じるに値するのか?」
暗躍するモンブラン伯の息がかかった新聞がそう書き立てるわ。旅費の借款で揉めるわ。どうにも不穏な空気が立ち込めてゆきます。
その背後に、海を超えた反幕の動きがあったことは押さえておいた方がよいでしょう。
万博参加を幕府が勧めた際、応じたのは佐賀藩と薩摩藩のみでした。
幕末の大変な時期です。無理もないことでしょう。
このうち薩摩藩は不敵にも、薩摩藩主と琉球国王を混同させるような情報をマスメディアに流しました。
陳列会場でも日本からの独立国であるかのような展示をし、まるで丸に十字が国王の紋章であるかのように掲げられたのです。

島津家の家紋「丸に十文字」/wikipediaより引用
いったい日本はどうなっているんだ?
そう疑念を抱かせることを、薩摩藩は堂々と行ったのですが、彼らの背後にイギリスがいて、その知恵を吹き込んでいたのであれば合点がいくでしょう。
華やかな万博の裏では、反幕の暗闘も進められていたのでした。
プラントハンターの庭でホームシックを癒す
幕末から明治にかけて、西欧諸国と渡り合った日本人がいました。
幕府側にせよ、それは素晴らしいことのように思えます。
しかし、彼らなりの思惑もありました。
江戸時代、ヨーロッパ経由でサツマイモやジャガイモが日本にもたらされ、食生活が変わりました。これは一方通行でもなく、西洋も東洋の植物を求めていたのです。
彼らはプラントハンターと呼ばれ、東洋で珍しい食物の採取を行いました。
オランダでは、あのシーボルトの子であるアレクサンダーが、昭武一行を庭園に案内。
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そこにはシーボルトが日本で集めた牡丹、菊、百合が咲いていました。
この出来事は、いかに珍しい植物に高値がつくかということを示しています。
こんな異国に日本の花があるとは……しばし郷愁に耽る一行。
なお、オランダでは醤油も輸入販売されており、これもホームシックを癒すために一役買ったとか。
とはいえ、これは綺麗なだけの話でもありません。
世界初のバブル経済とは、17世紀オランダの「チューリップ・バブル」とされています。
オスマン帝国由来のチューリップに高値がつき、球根が買い漁された結果、それが暴落し大混乱に陥ったのです。
雅な日本の花も、要するに文字通り金のなる木であったのです。
植物を持ち帰ったシーボルトには、こうしたプラントハンターの顔もありました。
その後の遣仏使節団一行
昭武一行の使節団は、もしかしたら「無駄だったのか?」と思われてしまうかもしれません。
結局のところ、イギリスと手を組んだ薩摩が勝利し、幕府は崩壊。
異国の地で倒幕を知った一行の虚しさを思えば、胸が痛くなります。
しかし、帰国したメンバーの中には、新たな日本作りに貢献した人物も多数います。
・渋沢栄一
「日本資本主義」の父と称される
・高松凌雲(たかまつりょううん)
函館戦争では敵味方区別なく治療。
医療技術とボランティア精神の向上に貢献。

高松凌雲/wikipediaより引用
・杉浦譲
郵便制度の確立、富岡製糸場建設に貢献する。
・山高信雄
政府に出仕し、博物館行政に関わる。
・田辺太一
明治政府出仕後、外交通として岩倉県央使節団に随行。貴族院議員、錦鶏間祗候となる。
・箕作麟祥(みのつくり りんしょう)
フランス法典翻訳出版に貢献。成文法の成立に大きく貢献する。
・栗本鋤雲(くりもと じょううん)
政府には出仕せず、在野の舌鋒鋭いジャーナリストとして活躍。
・向山一履(むこうやま かずふみ)
静岡藩学問所頭取となるも、廃藩置県後は漢詩人・向山黄村として余生を過ごす。
・清水卯三郎
出版、輸入、輸出品の製造販売に貢献。
こうして成功したものもいれば、会津藩士として白河口副総督となり、戦死した横山主税常守もいました。
保科俊太郎正敬は、知識と語学力を生かし、明治の陸軍をフランス式とすべく尽力しました。
しかし長州軍閥が陸軍をドイツ式にすると決めると、彼は己の役目が終わったことを悲観したのでしょうか。明治16年(1883年)自殺を遂げてしまいます。
幕末の日本人留学生や欧米の土を踏んだ中にも、いろいろな人がいました。
攘夷思想から抜けきれず、ストレスのあまり自殺してしまった人。
困窮し命を落とした人。
そして写真と名前だけは名簿に残っているものの、その後の消息が不明となった人。
歴史の中に消えていった人々もいます。
様々な思いがあって、新しい明治という世ができた。そこには幕府も倒幕側も超えた協力があった。
そんな思いを感じつつ、歴史を楽しんでいければよいですね。
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【参考文献】
宮永孝『プリンス昭武の欧州紀行』(→amazon)
別冊歴史読本『世界を見た幕末維新の英雄たち』(→amazon)
コーツ『プラントハンター東洋を駆ける: 日本と中国に植物を求めて』(→amazon)
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon)
他







