吉田松陰

『絹本着色吉田松陰像』/wikipediaより引用

幕末・維新

長州藩の天才・吉田松陰が処刑された真の理由は?30年の生涯まとめ

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そして安政元年(1854年)。

松陰は長州藩の下級武士である金子重之助とともに、小舟に乗ってポーハタン号へと近づきました。

「あんたたちの国で学びたい、どうか連れて行きなさんせ!」

熱意を込めて語るものの、アメリカ側に断られてしまいます。しかし、松陰ら二人の熱意と知識欲に対し、彼らも大いに感銘を受けたのでした。

望みを断たれて戻った松陰らは、北町奉行で取り調べを受け、伝馬町の牢獄に送られてしまうのです。

これが三度目の「猛挙」。

このとき松陰はこう詠んでいます。

かくすれば かくなるものと しりながら やむにやまれぬ 大和魂

【意訳】こねえなんをすりゃあ、こねえな結果になると知ってはいるのだが、ぼくの大和魂は止められんのじゃ

 

野山獄から「松下村塾」へ

松陰は、連坐して捕縛された佐久間象山と共に、自藩幽閉の処分となり萩へ移され、野山獄に収容されます。

安政元年(1855年)11月からの獄中生活では、読書と思索に没頭。入獄の半年後には、囚人たちの間で読書会が組織されました。

このときの『孟子』講義をもとに、主著『講孟余話』が生まれたのです。

講義を通して獄内の風紀は向上し、藩側としてはこのことに驚きました。約一年に及ぶ獄囚生活は、決して無駄にはなりませんでした。

藩は松陰の才能を認め、安政2年(1856年)末、病気保養を理由として、実家の杉家に戻すことにします。

松陰は自宅の狭い一室に閉じこもり、ここでおとなしく自学自習に励もうとしました。

そこへ父と兄がやって来ます。

「お前が獄中で行った『孟子』の講義録を読んだ。たいしたもんじゃ。これを完成させんのは惜しい。どうだ、自宅でも講義を続けてみんか?」

二人はそう言って、松陰に『孟子』の講義を委託。吉田松陰による「松下村塾」が始まりました

松下村塾

以後、幕命により江戸に召喚されるまでの2年半、松陰は実質的な主宰者として後輩の育成指導に当たります。

ここで注意したいのは、松下村塾を始めたのは彼ではない、ということでしょう。

創始者は玉木文之進です。

「あれっ?」と思った方、おりませんか。もっと長期間じゃないの? そんなに短いの? という印象ですよね。

実は、松陰の弟子たちはそれだけの短期間しか、指導を受けていないのです。

確かに彼は教育者でありますし、現在においてもその部分が大きくクローズアップされます。

が、実際には遊学、活動家としての歳月の方が長いのでした。

 

気鋭の「松下村塾」若者たち

松陰の主宰する「松下村塾」には、続々と優秀な若者が集まり始めました。

神童の誉れ高く、元は「明倫館」の教授です。しかも、アメリカ船相手に密航を失敗した松陰は、萩ではちょっとした有名人であったのでしょう。

これが錚々たるメンバーでして。

・高杉晋作
・久坂玄瑞
・吉田稔麿
・入江杉蔵
・野村靖
・久保清太郎
・前原一誠
・伊藤博文

「松下村塾」は、表向き『孟子』を講義する漢学塾ですが、この時勢で昔ながらの学問だけでは追いつけません。

そこで、国の行く末に危機感を抱く、松陰自身の強い実学指向のもと、当時の世界情勢や国の実情について考え、討論する、熱血トークが特徴の場でした。

そういう意味では政治結社的な部分もあったわけです。

薩摩で言えば、大久保利通が主導した精忠組が近い存在でしょうか。

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「松下村塾」の指導は、もはや伝説的とも言えます。

塾生たちも、松陰のひたむきさに感銘を受けるばかりでした。

手を洗っても拭くのは服の袖。髪を結うのは二ヶ月に一度。学問の情熱に賭けていて、眠気が襲えば夏ならば袖まくりして蚊に刺され、冬ならば裸足で庭に降りて走りました。

口調は激しく言葉が激烈なものの、仕草は優しく、ある時は塾生を驚かせ、ある時は塾生を大いに笑わせました。

エピソードにも事欠きません。

・自分に論戦を挑んできた久坂を諭し、入門させた話

・龍虎と呼ばれた高杉晋作久坂玄瑞を競わせ、互いに切磋琢磨させたこと

・松陰が喫煙をたしなめたところ、塾生が次から次へと煙管をヘシ折り、山になったという話

・「毒のある河豚を食べること」の可否について論じた話

・身分を問わず広く門戸を開いたこと……

ただし、身分についての話には注意が必要です。

確かに士分以外も塾生はいましたが、割合としては2割以下。8割以上が士分です。

松陰はじめ、弟子である高杉や久坂も、武士階級こそが民を率いて国難に立ち向かうべき、という考え方でした。

奇兵隊」には武士階級以外も参加していますが、人数不足を補うためであり、平等思想に基づくものではありません。

未来を憂い、国を率いる士分の若者を育てる場。

それが「松下村塾」でした。

 

安政5年、政治改革への期待感と挫折

前述の通り、松陰の目指した目標は「二十一回猛士」です。

人生で「二十一回の猛挙(すごい行為、ルール違反、破天荒なこと)」を行うこと。そんな過激な師の言動に、次第に塾生たちも困惑するようになりました。

安政5年(1858年)、幕府はとんでもない失策を犯しました。

「日米修好通商条約」の勅許を得るため調停工作を行い、失敗していたのです。

尊王攘夷派と呼ばれる人々は、幕府の要求が突っぱねられたことに快哉を叫びました。

彼らはこの揉め事が、どういう結果をもたらすのか。おそらく理解していなかったことでしょう。

勅許を得ることに失敗した老中・堀田正睦は失脚。

代わって幕府の大老・井伊直弼が権勢を握ります。

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彼はこの困難な難局を乗りきるため、剛腕を発揮します。

まず許せなかったのは、勅許工作の間隙をぬって水戸藩に下された「戊午の密勅」です。内容は倒幕をそそのかすものであり、井伊とすれば見逃せるワケがありません。

その背後に、一橋慶喜を推していた「一橋派」の暗躍があると睨んだ井伊は、ただですまそうとは思っていません。

一橋派を退け、徳川慶福(のちの徳川家茂)を将軍後継者に指名。勅許を得ずに開国へと踏み切ります。

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こうした政治の動きに、松陰は絶望してしまいます。彼は開国に反対し、一橋派こそ、幕政を改革する正義の一派であると確信していたのです。

思い詰めた松陰は、だんだんと過激な言動を行うようになります。

周囲の者は、そんな松陰に困惑する他ありませんでした。

 

老中暗殺計画

そんな激動の年の11月。

松陰の耳に、ある噂が飛び込んで来ました。

水戸藩・薩摩藩・越前藩・尾張藩の有志が、井伊直弼暗殺計画を練っているというのです。

この後、井伊が水戸藩・薩摩藩の刺客により殺害されることを考えると、ある程度までは本当の計画です。ただし、越前藩と尾張藩まで加わっていたかどうかは不明。

いずれにせよ松陰は、居ても立ってもいられなくなりました。

当時、井伊と「井伊の赤鬼、間部の青鬼」と並び称されていたのが、老中・間部詮勝。

京都方面で、弾圧の指揮を執っていたこの間部を暗殺しようと考えたのです。

晩年の間部詮勝/wikipediaより引用

「ぼくらが勤王の一番槍とならにゃあならん! 有志が井伊の赤鬼を狙うなら、ぼくらは青鬼じゃ!」

松陰は檄を飛ばし、門下生17名の血盟を得ます。

そして、藩の重役・周布政之介(すふ まさのすけ)に願書案分(要するに暗殺計画書)を提出。別の重役の前田孫右衛門には、鉄砲を貸して欲しいと頼み込みました。さらに……。

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