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【お由羅の方とお由羅騒動】
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自分たちの密貿易を幕府に訴える大博打
「正室生まれの長男を、あいまいな理由で廃嫡しようとするとロクなことがない」のは江戸時代のテンプレ。
それでも、現役の藩主である斉興が存命なので、無茶はできません。
下手をすると「お家騒動→改易」の華麗なコンボが決まってしまいます。まぁ、この頃の幕府に、薩摩を改易に追い込んだり、その後処理をする余裕もないのですが……。
ともかく、そんなこんなで業を煮やした斉彬派たちは、一世一代どころか島津家としても史上初レベルの大博打に出ます。
なんと、琉球でやっていた薩摩藩の“密貿易”を老中・阿部正弘に密告、その責任を取る形で斉興と調所を失脚させようとしたのです。
密貿易は、江戸幕府が始まってすぐの頃からやっていたので、まさに「公然の秘密」だったのですが、それをわざわざ表沙汰にしようというのは自殺行為にほかなりません。しかし!
久光派の調所が取り調べを受け、程なくして急死してしまうのです。
死因は不明ながら、一人で責任を負うために毒を飲んだ……と言われており、この場合は間違いなく斉興をかばうためでしょう。
そこまでして斉彬の家督相続を防ぎたかったわけです。
斉彬では次の跡継ぎ問題も抱えて
最大の目標である斉興隠居が叶わなかったために、問題はさらに長引きました。
斉興自身がこの一騒動で「調所の死を無駄にしないためにも、絶対斉彬なんかに家督は譲らないし、ワシの跡継ぎは久光決定!」と、はた迷惑な決意を新たにしてしまったのです。
そしてお由羅の方も、我が子・久光が藩主になればいろいろオイシイわけですから、密かにそれを願っていたと思われます。
斉彬派もそこには気付いていました。
ここでキーになるのが、「斉彬の子女の多くが夭折しており、成人したのが娘三人だけ」&「久光の子女には成人した者が多かった」ということです。
正確に言えば、久光の子供でも夭折していた者はいたのですが、跡継ぎの男子が「いる・いない」では雲泥の差が生じます。
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もしここで仮に斉彬を次の藩主にしますと、近い将来にもう一度、後継者問題が起きることは目に見えてます。
婿養子を取るにしても「それなら久光に」となるのは明らかでした。
だったら最初から斉興→久光の順に継がせるほうがスムーズですよね。
久光やお由羅たちを殺そうとして
それでも正室の長男かつ、見識の広い斉彬が藩主にふさわしいと考える者は少なくありません。
そして斉彬派はこんな怖いことを考え始めます。
「斉彬様のお子様ばかりが早く亡くなったのは、お由羅が呪いをかけていたからだ!」
少しずつ医学が発展していたとはいえ、江戸時代はまだまだ「呪詛(つまり呪い)」の力が信じられていた時代でもありました。
ドラマなどですとよく強調されますが、実際にお由羅の方が斉彬の子供を呪っていたのかは定かではありません。
まあ、そもそもコッソリやるものですしね。
斉彬派の苛立ちは外部にも伝わっており、そのうち「斉彬派が久光派を襲撃して、何が何でも斉彬を藩主にするつもりだ!」という噂が立ち始めます。
そして嘉永二年(1850年)12月。ついに事件が起きるのです。それは……。
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