こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【お由羅の方とお由羅騒動】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
幕府が斉興に“茶器”を贈って引退勧告
騒動のため、藩内で孤立した斉彬が、家督を継ぐことはもはや絶望的に見えました。
しかし、まだ味方は残っていました。
斉彬派の一部は、斉彬の大叔父にあたる福岡藩主・黒田長溥(ながひろ)を頼って脱藩します。
長溥は、島津家から黒田家に婿養子に入った人であり、十一代将軍・徳川家斉の正室である高台院の弟なので、実家にも幕府にも顔が利きます。
当然、斉興は長溥に「ウチのモンが世話になったな^^ こっちに返してくれる?」(超訳)と言いましたが、長溥は拒絶しました。
さらに長溥は、実弟である八戸藩主・南部信順(この人も島津家から南部家へ婿養子に行った人)と一緒に「すみません、実家でこれこれの経緯があってもうどうしようもないので、上様のご裁可をいただけませんか」と幕府へ報告したのです。
直接頼んだのは上様=十二代将軍・徳川家慶相手ではなく、老中首座の阿部正弘。
この手の騒動を収める方法はいくつかありますが、阿部正弘も徳川家慶も「島津斉興を隠居させたほうがいい」と考えたようです。
そこで家慶は、斉興に茶器を送り、暗に「そろそろ歳だし、これからは隠居してゆっくり茶でも楽しむといい」と示しました。
武家というより公家や宮中で行われていそうなやり取りですね。
そもそも兄弟仲は悪くない?
さすがに将軍の命令では斉興も逆らいきれず、隠居して家督を斉彬に譲ることになります。
「最初からそうすればいいじゃん」とツッコミたくなってしまいますが、話がここまで大きくなったからこそ、幕府も動いたのかもしれません。
この一連の騒動を「お由羅騒動」というのですが、お由羅自身がどこまで関与していたのかは不明です。
処分もされていませんし、天寿を全うしています。
もしも「密かに我が子の藩主就任を祈っていた」くらいで、陰謀には全く関与していなかったとしたら、イメージだけで諸悪の根源扱いされていてかわいそうですね……。
というか、そもそも斉彬と久光の兄弟関係は決して悪くありません。
久光は勉強も得意なアタマの良い人物で、斉彬も信頼しており、後に彼が江戸に出向いたときは、薩摩藩内の藩主代行のようなことを久光に頼んだりしています。
そんな書状も残っております。
西郷にも大久保にも大きく影響
それでも、お由羅騒動が与えた影響は小さくありません。
西郷隆盛や大久保利通など、後々討幕や明治政府を作っていく人々にも大きく関係しています。
例えば、隆盛の父・吉兵衛は、切腹になった赤山靱負(あかやま ゆきえ)の介錯を務めた後、その様子を隆盛に詳しく聞かせ、切腹の際に血がついた衣も見せたのだそうです。
これによって、隆盛は斉彬の家督相続のため奮闘するようになったとか。
大久保家では父・利世が琉球館(琉球王国の出張機関・鹿児島と中国福建省に1つずつあった)の仕事を罷免された上に流罪という、重い処分になっています。
利通もまたクビを切られ、一家で困窮してしまいました。
隆盛がこの間、大久保家を援助していましたね。
幕末作品の見どころの一つで、このあたりは大河ドラマ「篤姫」や「西郷どん」でも扱われましたが、さすがに「青天を衝け」では渋沢栄一が主役ですので遠すぎますね。
以下、西郷や大久保の記事も併せてご覧いただければ幸いです。
あわせて読みたい関連記事
斉彬と久光の父・島津斉興~藩財政を立て直し薩摩躍進の礎を築いた功績に注目
続きを見る
幕末薩摩の名君・島津斉彬~西郷らを見い出した“幕末の四賢侯”50年の生涯とは
続きを見る
財政を立て直したのに一家離散!調所広郷が幕末薩摩で味わった仕打ち
続きを見る
西郷隆盛~幕末維新の時代を最も動かした男~誕生から西南戦争まで49年の生涯とは
続きを見る
大久保利通49年の生涯まとめ~紀尾井坂に斃れた維新三傑の最期は自業自得なのか
続きを見る
西郷の敵とされる島津久光はむしろ名君~薩摩を操舵した生涯71年
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
芳即正『島津久光と明治維新』(→amazon)
お由羅の方/Wikipedia
お由羅騒動/Wikipedia