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【ジョン万次郎】
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薩摩藩での取り調べ
「蘭癖」と呼ばれるほど西洋の学問技術を好み、開国と富国強兵が必要であると理解していた斉彬。
万次郎はまさに歓迎すべき人物でした
一行は手厚い歓待を受け、アメリカで手にした知識を教えるよう依頼されました。
その期間は、47日間。万次郎は、政治的に自分の行動がどういう意味を持つかわからないまま、身につけた知識を惜しむことなく、薩摩藩に伝えました。
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その後、万次郎は薩摩藩によって長崎奉行へ送られました。
そこで踏み絵を行い、宗教的に問題が無いか調べられ、いきなり9ヶ月もの間、牢に入れられてしまいます。
時代が変わりつつあるとはいえ、当時は黒船前夜です。鎖国を破った万次郎には、厳しい処分が待っていたわけです。
そして万次郎の身柄は、出身地である土佐藩へ送られたのでした。
故郷・土佐藩で士分に取り立てられる
久々に踏んだ、故郷の地――。
そこで彼を待っていたのは、藩主の山内容堂と大目付・吉田東洋でした。
薩摩藩と同じく、土佐藩でも万次郎の知識を求めていました。
彼はイキナリ「定小者(さだこもの)」という最下級の士分に取り立てられます。
思えば文政10年(1827年)、中浜村に万次郎が生まれたとき、彼は貧しい漁師の二男に過ぎませんでした。
幼い頃に父を失い、母ときょうだいで苦労してきたものでした。
それがどうでしょう。
アメリカで勉学に励み、ゴールドラッシュも体験し、さらには士分にまで取り立てられたのです。
ジョン万次郎を大河ドラマの主役に!という声が絶えないのも納得のできる話ですね。ここまででも十分にドラマチックです。
土佐の若者たちは、万次郎の話を熱心に聞きました。
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彼らは万次郎が描いた世界地図を見て、かつての彼と同じように、日本のあまりの小ささに目を丸くしたのでした。
黒船来航で今度は直参旗本となる
嘉永6年(1853年)、黒船が来航すると世間は騒然となります。幕府ももはや日和見主義を貫くことができません。
万次郎は、時の老中・阿部正弘により江戸にまで呼び出されました。そして直参に取り立てられ、「中浜」の姓を与えられたのです。
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阿部もまた有能な人材であり、無下に咎を責めるようなことはなく、万次郎の才を買ったのでした。
話のできる者がいたことで幕府にとって幸か不幸か、この時点ではわかりませんが……。
いずれにせよ急ピッチで開国へと準備を進める中、英語ができ、知識豊富な彼は重用されます。
万延元年(1860年)。
万次郎は遣米使節団の一員として咸臨丸に乗り込み、恩人たちの待つアメリカに向かいます。
ハワイでは恩人のデーマン牧師と再会を果たしました。
デーマンはホイットフィールドに、彼が育て上げたジョン・マンが、祖国で立派に役割を果たしていると、手紙で伝えます。
そのあと、万次郎は日本と土佐藩のため、全力で働き続けました。
豊かな彼の知識は、誰にとっても喉から手が出るほど欲しいもの。まさに引っ張りだこでした。
ただし、彼には政治的な野心はありません。
維新の中で活躍して地位を得ることよりも、ひたむきに知識を伝えることを使命としていたのです。
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