後藤象二郎

後藤象二郎/wikipediaより引用

幕末・維新

西郷に並ぶ人物と評された後藤象二郎~板垣や龍馬の盟友60年の生涯

2023年5月16日、英国ビクトリア女王から贈呈されたサーベルが都内で発見されたとして、NHKでこんなニュースが流れました。

◆英女王が土佐藩士 後藤象二郎に贈呈のサーベル 都内で見つかる(→link

黄金色の豪華な装飾が施されたサーベルで、贈られたのは土佐藩士として知られる後藤象二郎

【パークス襲撃事件】で英国公使を守った功績が称えられてのことで、刀身には

TO GOTO.SHOJIRO THE 23nd OF MARCH 1868

と彫り込まれていました。

1868年といえば前年の大政奉還を受けて、1月から戊辰戦争が始まった激動の年であります。

そんな重要局面で英国公使ハリー・パークスの護衛を任されていた後藤象二郎とは一体何者なのか。

実は、同じ土佐出身の坂本龍馬をもしのぐスケールの人物ではなかったか?とも評される象二郎の生涯を振り返ってみましょう。

 

東洋に育てられた象二郎

吉田東洋のもとで育てられると、山内容堂に重用され、武市半平太を尋問して追い詰める。

さらには坂本龍馬と意気投合し、明治以降も下野して活躍した後藤象二郎。

彼は天保9年(1838年)、後藤正晴の長男として高知城下片町に生まれました。

母は大塚勝従の長女。

同時期の人物と比べると、少しだけ若い世代と言えましょうか。

文政10年(1827年/11才上)山内容堂(本稿では“容堂”で統一)西郷隆盛

文政12年(1829年/9才上)武市半平太

文政13年(1830年/8才上)吉田東洋・吉田松陰大久保利通

天保2年(1831年/7才上)孝明天皇

天保6年(1835年/3才上)坂本龍馬

天保8年(1837年/1才上)板垣退助徳川慶喜

天保9年(1838年/同年)後藤象二郎・岡田以蔵中岡慎太郎

天保10年(1839年/1才下)高杉晋作

天保11年(1840年/2才下)渋沢栄一

天保12年(1841年/3才下)伊藤博文

幼名は保弥太(やすやた)といい、一歳上の板垣退助はこの幼名から「やす」と彼を呼んでいたと言います(本稿では象二郎で統一)。

そんな象二郎が数えで11才を迎えた嘉永元年(1848年)以降、立て続けに不幸に見舞われます。

江戸藩邸で父が病死すると母が実家に戻され、祖母に育てられるも数年で亡くなってしまい、伯父に預けられると狭い部屋に閉じ込められるような暮らしを迎えるのです。

救いの手を差し伸べたのが、義理の叔父にあたる吉田東洋でした。

吉田東洋/wikipediaより引用

優れた見識を持った人物として知られる東洋。

「老公」として土佐藩に君臨する山内容堂は、この東洋を師と仰ぎ、重用するほどでしたが、同時に彼には性格の癖が強い欠点もありました。

安政元年(1854年)に酒宴の席で暴力事件を起こし、役目を解かれてしまうのです。

しかし象二郎にとっては、不幸中の幸いとも言えました。

役目を解かれた東洋が「少林塾」を開いて若者を指導するようになり、象二郎も通うことになったのです。

安政2年(1855年)から安政5年(1858年)まで開かれていたこの塾からは、象二郎だけでなく

・板垣退助
・岩崎弥太郎
・谷干城
・福岡孝弟

といった有能な土佐藩士たちが巣立っていきました。

そして東洋が政治の舞台に復帰すると、彼が育てた青年たちにも活躍の場がめぐってきました。

「私の甥ですが、後藤は必ずや藩のお役に立つべき者と存じます」

才気煥発な象二郎は、容堂の目にも叶いました。

少林塾で学んだ青年たちは【新おこぜ組】と呼ばれ、藩政改革を背負う逸材に育っていったのです。

 

【新おこぜ組】の一員としての浮沈

安政5年(1858年)、象二郎は幡多郡奉行となり、普請奉行、近習目付を歴任。

しかし文久2年(1862年)、武市半平太率いる【土佐勤王党】が吉田東洋を暗殺すると、状況は一変します。

武市半平太は東洋の悪評を抜かりなく広めており、暗殺の被害者遺族である吉田家は断絶へ。

東洋一派は軒並み免職に追い込まれ、象二郎も役を解かれてしまうのです。

それでもめげずに江戸へ出た象二郎は、開成所で蘭学、英学、英語、航海術を習得。

その間、土佐では、容堂が武市半平太らの言いなりになったようでいて、象二郎も腹の底では怒りと復讐心をたぎらせていました。

土佐で再び動きが活発化するのは、その翌年のことです。

文久3年(1863年)、京都から帰国した容堂が土佐勤王党の逮捕を命じると、元治元年(1864年)に象二郎も藩政へ復帰。

そして土佐勤王党のメンバーが囚われた獄へ、訊問のため姿を見せます。

父と仰いだ東洋が無惨に暗殺された。その仇です。

象二郎の理路整然とした訊問に、囚人たちは重い口を開いてゆきます。

武市半平太たちからすれば後藤象二郎は憎い相手ですが、元はといえば吉田東洋を殺した方が悪いのです。

慶応元年(1865年)、武市半平太以下【土佐勤王党】の面々は処断されました。

なお、母を失い孤児となった東洋の嫡男・正春は、象二郎が引き取り育てていました。

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