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【後藤象二郎】
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武力に依らぬ政権交代実現を目指す
慶応2年(1866年)、象二郎は藩命を受け、薩摩や長崎、そして上海まで出張します。
坂本龍馬と知遇を得たのもこの頃のこと。
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たしかに龍馬は武市半平太のもと【土佐勤王党】にいたこともあります。彼の知人友人の中にも、岡田以蔵はじめ、尋問を獄中で受け命を落としたものもいます。
しかし両者は恨みつらみを捨て、国事のために一致したのです。
象二郎は龍馬を気にいり、脱藩を免罪したうえで、海援隊と陸援隊を任せました。
龍馬の「船中八策」を容堂にみせ、藩の方針にしたともされています。
ただ、こうした龍馬伝説は誇張もありますので、注意が必要です。
龍馬の仲介により、慶応2年(1866年)1月に結ばれた【薩長同盟】もそうです。
倒幕のためと誤解されやすいですが、当初は追い詰められていた長州藩を救うためのものでした。徳川慶喜と対立し【一会桑政権】に不満を募らせていた薩摩側の思惑もあります。
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土佐藩には、薩摩藩や長州藩とは異なる、独自の路線がありました。
武力を行使しない、ソフトランディングによる政権交代、変革を考えていたのです。
近藤勇との対面で
慶応3年(1867年)、土佐藩は最終局面に挑みます。
まずは薩摩藩を牽制すべく【薩土盟約】を締結。これは間も無く反故にされますが、土佐藩は同時に幕府とも交渉していました。
徳川慶喜の懐刀といえる幕臣・永井尚志と折衝し、【大政奉還】を進めていたのです。
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その交渉役こそ象二郎です。
近藤勇が長脇差を持ち、会談の場へやって来たところでこう告げます。
「私はその腰に挿した長いものが大嫌いでして。それは外して語り合いましょう」
象二郎は背が高く、筋骨たくましく、相撲取りかと思えるほどの迫力がありました。
新選組局長と対峙しても負けない気迫で、武装解除させると、大政奉還についての説明を始めました。
すると近藤勇はため息をついてこう語ったと言います。
「うらやましいことですな。それがしも土佐におれば、思う存分働けたものを……」
「あなたは天下に名が知られておりますからな。いっそ商業に転換してみては? 大阪の豪商ならば顔がききます。紹介しましょうか」
近藤勇は政治的見識のある人物です。象二郎と語らうことで、己の限界も自覚できたのかもしれません。
しかし彼にはついにその紹介を頼むことはできませんでした。
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土佐藩の態度はどっちつかず、わかりくいと後世に評されたりします。
しかし【武力倒幕】は禁じ手であり、下策というのが当時の認識。
内戦のせいで諸外国に干渉されては危険である。無駄に血を流すことはない。それが良識的な意見でした。
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パークス襲撃事件
土佐藩と慶喜で進めた政略も、大政奉還までは成功しました。
ところが慶喜一派は、会津藩や周囲に相談(根回し)をしておらず、騙し討ちだと焦燥した会津藩は、坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺してしまいます。
不穏な空気は彼らの周辺だけにとどまりません。
薩摩藩も武力討幕に乗り気であったのは一部の者たちだけでしたが、薩摩藩を指導し、武力討伐に反対していた赤松小三郎が、中村半次郎によって殺害されてしまいます。
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そして慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争へ。
土佐藩は幕末の最終局面において、倒幕か、佐幕か、優柔不断であったように誤解されています。
しかし彼らは武力に依らない第三の道を目指していただけのこと。
戊辰戦争が始まった同年3月、ハリー・パークスの護衛を務めていた後藤象二郎は、襲撃事件に遭遇。
暗殺犯を撃退し、英国公使を救ったことでビクトリア女王から讃えられたのは、前述の通りです。
パークスは象二郎のことを「聡明で話がわかる」と絶賛しており、さらには「彼より勝る大人物は西郷隆盛くらいだ」と評したほどでした。
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両者には信頼関係がありました。
象二郎は知識を吸収し、西洋諸国を参考にしながら、新たな国家を作りたい気持ちがあったのでしょう。
しかし、いざ明治の世が始まってみれば、そううまくはいきません。
ちなみに象二郎の親友である板垣退助は、そのころ戊辰戦争に転戦し、会津戦争にも従軍していました。
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