永井尚志という幕臣をご存知でしょうか?
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』で中村靖日(やすひ)さんが演じましたが、おそらくやその後もほとんど認知度が上がってないような気がします。
なんせ永井は、名前の読み方からして長いこと判明しておりませんでした。
現在では「なおゆき」とされている諱は、かつて「なおむね」と呼ばれることが多く、古い書籍や案内板等では、今なお「なおむね」と表記されていたりします。
しかし、です。
彼の忠義、無念さには胸打たれるものがあり、このまま歴史の陰に埋もれさせておくのは忍びない――。
ということで、明治24年(1891年)7月1日に亡くなった、永井尚志(ながいなおゆき)の生涯を振り返ってみましょう。
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永井尚志 大名の長男から旗本の養子へ
文化13年(1816年)11月3日。
三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹(のりただ)に、男児・岩之丞が生まれました。
徳川家に繋がる名門・松平。
かつ先に生まれた兄(長男)は早世しています。
ゆえに待望の男児として喜ばれ……るどころか、彼には大名にはなれない宿命が待ち受けていました。
父が長いこと子に恵まれなかったため、既に家督を弟の子であり養子でもある松平乗羨(のりよし)に譲っていたのです。
こうなると岩之丞は御家騒動の原因になりかねません。
三歳にして両親を亡くし、孤児となった岩之丞は、江戸藩邸で育つことに。
その聡明さを買われたのか。
やがて彼は天保11年(1840年)、25歳で旗本永井家の養子となります。
徳川一門大名の子として生まれながら、旗本の養子になるという、異例の経歴はかくして始まったのです。
昌平黌で頭角を現す
名前を岩之丞から永井尚志へ変更。
それがキッカケになったかのように、以降の永井は遅咲きの才能を花開かせていきます。
普通、藩校で学ぶ武士は、十代で才能の片鱗を見せるものです。
福井藩の橋本左内が十代にして麒麟児扱いされていたことと比較すると、尚志はかなりの遅咲き。
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尚志は昌平黌(しょうへいこう・昌平坂学問所)に入ると、メキメキとその聡明さを発揮します。
朱子学を身につけるばかりではなく、影響を及ぼしつつある西洋についての見識も深めてゆくのでした。
永井尚志という人物は、その功績のみならず、出生や知識のバックグラウンドをみても興味深いものがあります。
彼のような名門エリートは、志士とは大きく異なる。
例えば渋沢栄一と比べてみたのが以下の通りです。
◆永井尚志
血統:徳川家の流れを汲む大名の子、名門
デビュー:比較的遅い。25歳をすぎてやっと目立ち始める
学問:朱子学と西洋知識。詠んだ漢詩は四百とも五百とも!
黒船来航後の外交を担い
嘉永6年(1853年)、幕末の分岐点が訪れます。
志士たちが激昂する一方、幕府では才能ある人材登用がなされる転機となりました。
永井尚志も海防掛とされ、日米和親条約締結に関わります。
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ただし、岩瀬忠震や川路聖謨らのサポート役で、翌年の安政元年(1854年)には、長崎に赴いて長崎海軍伝習所総管理(所長)に就任。
日英協約の調印が進められ、安政2年(1855年)には日蘭和親条約にも携わりました。
大河ドラマではさほどスポットが当たりませんが、才智あふれる尚志のパーソナリティがおわかりでしょう。
長崎では、長崎製鉄所の創設や、カッター船建造にも関わっています。
幕府海軍は、実は短期間で格段の進歩を遂げているのですが、それも尚志のような人材に恵まれたからこそ。
彼らが無能に描かれがちな幕末ドラマは、あくまで演出とお考えいただいた方がよろしい気がします。
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そんな幕府の首脳部は早い段階から「開国しかない」として外交政策に取り掛かっていました。
まずは臥薪嘗胆し、国を強くするほかない――。
欧米列強に対し武力で立ち向かうことはできない――。
と、理性的な結論に基づきながら各国との交渉を進めていたのです。
日米修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約……こうした交渉のテーブルには常に尚志の姿がありました。
ところが、です。
そんな外交のエースたる尚志を待ち受けていたのは、不毛すぎる政争の巻き添え。
江戸幕府内で一橋派と南紀派に分かれた【将軍継嗣問題】に絡んで失脚してしまったのです。
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