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【山本権兵衛】
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あえて薩摩を外していたんでは?
最後に、山本の「薩摩出身だけれどもイレギュラー」に見える点について。
当時の海軍は「薩摩海軍」といわれるほど薩摩出身者が多い組織でした。
どちらかといえばお偉いさんも豪傑タイプで口下手な人がほとんどだったので、陸軍との折衝でうまくいかず、なかなか希望が通らないという歯がゆい思いもしていました。
当初の海軍は陸軍の下に置かれていたため下に見られており、「海軍独自の司令部がほしい」と言っても実現に至っていなかったのです。
しかし、弁が立つ山本が会議に加わってからは、明快な理論で陸軍をうならせることもあったといいます。
山本は若かりし頃ドイツ艦での実践演習を体験しており、その時の教官を「生涯尊敬する人の一人」としていました。
演習では文字通り世界中をまわっており、欧米人と接する機会も多かったと思われます。
その経験が山本の弁舌能力を上げたのかもしれません。
ときの陸軍のお偉いさんに、山本の幼馴染みがいたことも幸運でした。
やはり最後にものをいうのは、人間同士の信頼関係ということでしょうか。
しかし、バリバリの派閥政治だった当時において、山本は「地元が同じだから」というだけでは人事を行わなかったのも、他者から信頼を勝ち得るに大きかったのでしょう。
人員整理や新しい役職者を選ぶ際は、あえて薩摩出身者を除外していた感すらあります。
人事に関わる役職に就く前から、「山本がやってくれるようになれば、きっと公平になるだろう」とまで言われておりました。
「任せておけば大丈夫」
こうした山本の「柱」は真っ直ぐすぎて、外からは不審と映ることも多かったようです。
当時の新聞にもプラスマイナス両方の面からいろいろ書かれています。
大臣や元老クラスにも「もしかしたら奸賊になるのでは」と危惧していた人は多かったようですが、実際に会って話した人のほとんどは「あいつに任せておけば大丈夫」と思うようになっていきました。
山本もまた、同じように信頼できる人間を要職につけます。
日本海海戦で大勝利を収め、一躍世界に知られた東郷平八郎がその最たる例です。
東郷はそれまで地味な男だと思われていましたが、日清戦争時のとある事件を見事に解決したことで、山本の信頼を得ていたのです。
山本は総理大臣としては目立った功績はないのですが、にもかかわらず二度も組閣を命じられたのは、そういった絶大な安心感と、人を見る目が確かだったからなのでしょう。
ちなみに、二回目は関東大震災の直後です。
ときの首相・加藤友三郎が亡くなったばかりだったため、文字通り未曾有の事態でした。
そんなときに急遽総理大臣を任されるのですから、日頃上から下までいかに信頼されていたかがうかがえますよね。
現代も、これから日本の未来を背負っていく方々も、ぜひともお手本にしてほしい人物です。
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長月 七紀・記
【参考】
千早正隆『海軍経営者 山本権兵衛(プレジデント社)』(→amazon)
山本権兵衛/Wikipedia
山本登喜子/Wikipedia