武田耕雲斎と天狗党の乱

武田耕雲斎像(左)と天狗党員の墓/wikipediaより引用

幕末・維新

夫の塩漬け首を抱えて斬首された武田耕雲斎の妻~天狗党の乱がむごい

大河ドラマ『青天を衝け』で津田寛治さんが演じた武田耕雲斎

徳川慶喜渋沢栄一とも関係が深かった【天狗党の乱】の責任者であり、ドラマの公式サイトでも悲惨な最期を迎えると記されていました。

しかし……。

史実における耕雲斎の最期とは、とてもお茶の間の映像で描けるものではありません。

文字で読んでいたって正視に耐え難いほど後味の悪いもの。

こんな風に記すと『大げさだな……』と思われるかもしれませんが、個人的には幕末史どころか日本史上でも屈指のキツい話であり、心苦しいながら、武田耕雲斎と天狗党の乱の惨劇を振り返ってみます。

というのも元治元年(1865年)12月16日は耕雲斎らが降伏し、乱が終結となった日なのです。

国史大辞典では12月20日となっていますが、本稿では吉川弘文館『日本史 今日は何の日事典』(→amazon)より16日とさせていただきます

 


甲斐武田の末裔を称する武田耕雲斎

幕末の関東には、甲斐武田家の影が落ちていました。

振り返ってみると武田家は、戦国時代に織田・徳川によって滅ぼされたあと、遺臣たちの中には徳川に仕えた者もおりました。

家康が江戸を治めるにあたり、厄介なことに北条の残党がいた。嘘かまことか、風魔忍者の残党とされる向崎甚内といった盗人が活動。

その鎮圧のために武田遺臣を登用、彼らが豪農となった伝承があります。

真偽のほどはさておき、そう信じる層がいたことは確かです。

武田耕雲斎も、武田家とゆかりある跡部氏の出身だとして、同姓を名乗ることとしたのです。

※以下は武田の旧臣と家康の考察記事となります

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そんな誇り高き耕雲斎は、戸田忠太夫、藤田東湖と並び称されますが、主君である斉昭が藩主となるまでは紆余曲折がありました。

兄・斉脩が後継を決めぬまま死去したことから藩内抗争があったのです。

こうしたスムーズではない相続を支えたことから、藩政において存在感を示すようになった耕雲斎。

しかし肝心の斉昭が万延元年(1860年)に急死してしまいます。

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その半年ほど前には、桜田門外の変が起きていました。水戸藩士たちが大老・井伊直弼を暗殺した事件です。

もともと激しやすく、藩内抗争が起こりやすかった水戸藩は、これでタガが外れたような状態に……かろうじて抑えていた斉昭も、最晩年にはコントロールできないと焦りを感じていたとされます。

耕雲斎は一線を退き、藩内の調整をはかりますが、もはや彼一人ではどうにもなる状態ではありません。

その後、水戸藩は破滅的な行動へと走り始めます。

 


水戸藩の対立構図

水戸藩の対立構図は、斉昭が藩主となった時からのもの。

斉昭が藩主になった過程は、兄が後継者を決めなかったため中々大変なものでした。

そのため斉昭は、まず己の正統性を固めねば話になりません。

下級藩士から側近を集い、その中にいたのが藤田東湖や武田耕雲斎です。

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各藩での対立構図が最終的に倒幕か佐幕かに収斂されてしまったため、その対立と思われがちですが、もとは斉昭に賛同するか反対するか、そこで別れたのです。

斉昭を諌める側には、結城寅寿(ゆうきとらかず/朝道・ともみち)という才智あふれる人物がおりました。

人間的にもできた人物で、当初は斉昭や東湖らとも友好関係を築き上げていたのですが、徐々に対立を深めてゆきます。

その結果、結城派は、藤田東湖たちから「俗論党」とも呼ばれるように……。東湖らは、自分たちが高邁な思想を掲げるけれども、あいつらは保身しかない「俗論」を唱えてばかりの連中だと揶揄したのです。

幕末で俗論党、俗論派といえば長州藩があります。自分たちのアンチは下劣だと決めつける、あまりに身勝手なネーミングですね。

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東湖というブレーキ役が急死すると、斉昭は結城寅寿を死罪としました。

その子・結城種徳は獄中で絶食死。この惨い死には理由がつけられたものの、どうにもそれが事実かはっきりとしない。諌める東湖を失った斉昭の暴走の側面もありました。

そして実力者を惨死に追い詰められた結城派は、斉昭とその一派への深い恨みを抱きます。

 


天狗党とは

斉昭と藤田東湖の君臣は、思想面で水戸藩をリードさせました。

斉昭は抜群のパフォーマンスで人気があり、『青天を衝け』で描かれたように江戸の庶民まで斉昭待望論を抱いていました。

彼らは天狗党と名乗っています。

藤田東湖も思想面でリードしており、その死を悼む者は多くおりました。庄内藩出身の清河八郎もこの君臣に憧れていた一人です。

清河は新選組作品ではおなじみであり、近藤勇らを騙した小悪党扱いをされることもあります。

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しかし、それはあくまで新選組目線であって、清河が頭脳明晰な志士であったことは確か。

そんな清河が、文久元年(1861年)、尊王攘夷の本拠地水戸藩に期待を込めて足を踏み入れると、そこにいたのは、3~4歳の幼児相手にまで威張り散らす天狗党の姿でした。

「オラオラ、天狗のお通りだーっ!」

酒楼にいた清河に対して、天狗党が難詰するためにやってきました。困惑して「明日話したい」と答えると、鹿島参詣をするならば話す必要はないと去って行くではありませんか。

神社に参拝することでセーフ認定。彼ら天狗党はイデオロギー重視であり、敵味方認定が極端でした。

そうした水戸っぽ気質を示す人物としては、新選組の芹沢鴨もおりますね。

文久3年(1863年)に暗殺された芹沢は、近藤勇らの視点から見て、フィクション等で悪名を誇張されているところはあります。

しかし、芹沢の押しの強さは確かなようです。幕末の水戸藩には暴力的な気質が煮えたぎっていたのでした。

ただ、こうした天狗党の暴走が【桜田門外の変】でもあります。

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それから半年も経たぬうちに斉昭は心臓発作で亡くなっていますが、斉昭ですら、この状況に苛立ちと危機感を覚えていたのでした。

武田耕雲斎もまた、天狗党の暴走に懸念を抱く人物です。

もはや彼らは止まりませんでした。

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