武田耕雲斎と天狗党の乱

武田耕雲斎像(左)と天狗党員の墓/wikipediaより引用

幕末・維新

夫の塩漬け首を抱えて斬首された武田耕雲斎の妻|天狗党の乱はあまりにムゴい

2024/12/15

大河ドラマ『青天を衝け』で津田寛治さんが演じた武田耕雲斎。

徳川慶喜や渋沢栄一とも関係が深かった【天狗党の乱】の責任者であり、ドラマの公式サイトでも悲惨な最期を迎えると記されていました。

しかし……。

史実における耕雲斎の最期とは、とてもお茶の間の映像で描けるものではありません。

文字で読んでいたって正視に耐え難いほど後味の悪いもの。

こんな風に記すと『大げさだな……』と思われるかもしれませんが、個人的には幕末史どころか日本史上でも屈指のキツい話であり、心苦しいながら、武田耕雲斎と天狗党の乱の惨劇を振り返ってみます。

というのも元治元年(1865年)12月16日は耕雲斎らが降伏し、乱が終結となった日なのです。

※国史大辞典では12月20日となっていますが、本稿では吉川弘文館『日本史 今日は何の日事典』(→amazon)より16日とさせていただきます

 


甲斐武田の末裔を称する武田耕雲斎

幕末の関東には、甲斐武田家の影が落ちていました。

振り返ってみると武田家は、戦国時代に織田・徳川によって滅ぼされたあと、遺臣たちの中には徳川に仕えた者もおりました。

家康が江戸を治めるにあたり、厄介なことに北条の残党がいた。嘘かまことか、風魔忍者の残党とされる向崎甚内といった盗人が活動。

その鎮圧のために武田遺臣を登用、彼らが豪農となった伝承があります。

真偽のほどはさておき、そう信じる層がいたことは確かです。

武田耕雲斎も、武田家とゆかりある跡部氏の出身だとして、同姓を名乗ることとしたのです。

※以下は武田の旧臣と家康の考察記事となります

家康が旧武田家臣を重用した理由
家康が旧武田家臣を重用した理由|信玄や勝頼と死闘を繰り広げたからこそ

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そんな誇り高き耕雲斎は、戸田忠太夫、藤田東湖と並び称されますが、主君である斉昭が藩主となるまでは紆余曲折がありました。

兄・斉脩が後継を決めぬまま死去したことから藩内抗争があったのです。

こうしたスムーズではない相続を支えたことから、藩政において存在感を示すようになった耕雲斎。

しかし肝心の斉昭が万延元年(1860年)に急死してしまいます。

徳川斉昭/wikipediaより引用

その半年ほど前には、桜田門外の変が起きていました。水戸藩士たちが大老・井伊直弼を暗殺した事件です。

もともと激しやすく、藩内抗争が起こりやすかった水戸藩は、これでタガが外れたような状態に……かろうじて抑えていた斉昭も、最晩年にはコントロールできないと焦りを感じていたとされます。

耕雲斎は一線を退き、藩内の調整をはかりますが、もはや彼一人ではどうにもなる状態ではありません。

その後、水戸藩は破滅的な行動へと走り始めます。

 


水戸藩の対立構図

水戸藩の対立構図は、斉昭が藩主となった時からのもの。

斉昭が藩主になった過程は、兄が後継者を決めなかったため中々大変なものでした。

そのため斉昭は、まず己の正統性を固めねば話になりません。

下級藩士から側近を集い、その中にいたのが藤田東湖や武田耕雲斎です。

藤田東湖/wikipediaより引用

各藩での対立構図が最終的に倒幕か佐幕かに収斂されてしまったため、その対立と思われがちですが、もとは斉昭に賛同するか反対するか、そこで別れたのです。

斉昭を諌める側には、結城寅寿(ゆうきとらかず/朝道・ともみち)という才智あふれる人物がおりました。

人間的にもできた人物で、当初は斉昭や東湖らとも友好関係を築き上げていたのですが、徐々に対立を深めてゆきます。

その結果、結城派は、藤田東湖たちから「俗論党」とも呼ばれるように……。東湖らは、自分たちが高邁な思想を掲げるけれども、あいつらは保身しかない「俗論」を唱えてばかりの連中だと揶揄したのです。

幕末で俗論党、俗論派といえば長州藩があります。自分たちのアンチは下劣だと決めつける、あまりに身勝手なネーミングですね。

東湖というブレーキ役が急死すると、斉昭は結城寅寿を死罪としました。

その子・結城種徳は獄中で絶食死。この惨い死には理由がつけられたものの、どうにもそれが事実かはっきりとしない。諌める東湖を失った斉昭の暴走の側面もありました。

そして実力者を惨死に追い詰められた結城派は、斉昭とその一派への深い恨みを抱きます。

 

天狗党とは

斉昭と藤田東湖の君臣は、思想面で水戸藩をリードさせました。

斉昭は抜群のパフォーマンスで人気があり、『青天を衝け』で描かれたように江戸の庶民まで斉昭待望論を抱いていました。

彼らは天狗党と名乗っています。

藤田東湖も思想面でリードしており、その死を悼む者は多くおりました。庄内藩出身の清河八郎もこの君臣に憧れていた一人です。

清河八郎/wikipediaより引用

清河は新選組作品ではおなじみであり、近藤勇らを騙した小悪党扱いをされることもあります。

しかし、それはあくまで新選組目線であって、清河が頭脳明晰な志士であったことは確か。

そんな清河が、文久元年(1861年)、尊王攘夷の本拠地水戸藩に期待を込めて足を踏み入れると、そこにいたのは、3~4歳の幼児相手にまで威張り散らす天狗党の姿でした。

「オラオラ、天狗のお通りだーっ!」

酒楼にいた清河に対して、天狗党が難詰するためにやってきました。困惑して「明日話したい」と答えると、鹿島参詣をするならば話す必要はないと去って行くではありませんか。

神社に参拝することでセーフ認定。彼ら天狗党はイデオロギー重視であり、敵味方認定が極端でした。

そうした水戸っぽ気質を示す人物としては、新選組の芹沢鴨もおりますね。

文久3年(1863年)に暗殺された芹沢は、近藤勇らの視点から見て、フィクション等で悪名を誇張されているところはあります。

しかし、芹沢の押しの強さは確かなようです。幕末の水戸藩には暴力的な気質が煮えたぎっていたのでした。

ただ、こうした天狗党の暴走が【桜田門外の変】でもあります。

桜田門外の変襲撃の図(月岡芳年)/wikipediaより引用

それから半年も経たぬうちに斉昭は心臓発作で亡くなっていますが、斉昭ですら、この状況に苛立ちと危機感を覚えていたのでした。

武田耕雲斎もまた、天狗党の暴走に懸念を抱く人物です。

もはや彼らは止まりませんでした。

 


天狗党、挙兵す

大河ドラマ『青天を衝け』では藤原季節さん演じる四男・藤田小四郎。

史実の小四郎は文久3年(1863年)に上洛、京都で長州藩士と交流を深めました。

水戸藩で生まれ、長州藩が醸成した尊王攘夷にのめりこんでいったのです。

小四郎は将軍後見役の慶喜に従い帰国すると、天狗党を率いるようにます。

筑波山神社の参道入口のそばにある藤田小四郎像/wikipediaより引用

水戸藩では斉昭擁立以来、身分は低いながらも改革を掲げる者が重用されました。

天狗とは、鼻が高いのではなく志が高いという意味。

卑しい生まれのくせに調子に乗っているとやっかみを込めて呼ばれていたものを、かえって志が高いのだと、自ら名乗るようになったのです。

天狗党は武士だけでなく、豪農層も加えてゆきました。

藩内には郷校(ごうこう)という農民向けの教育機関があり、幕末の関東では、こうした智勇を備えた豪農層が育っていたのです。

尊王攘夷と改革を掲げれば武士になれる! そう張り切り、彼らは天狗党に参加するのです。

まだ十代、血気盛んで、戦は面白いからと参加した少年たちもいました。12歳の隊士もいたというのですから驚かされます。あやしげな侠客の姿を見たという証言もあります。

そして元治元年(1864年)3月27日。

膨れ上がった天狗党を率い、小四郎と田丸稲之衛門は筑波山で挙兵しました。

斉昭の神位を入れた神輿を担ぎ、日光東照宮を目指す――。

ここから兵をあげることには大きな意志と、斉昭の影響も感じられます。ともかく強引で、幕政に口を挟むことで知られ、水戸こそ徳川宗家になり代われると言いたげな態度が見えたのです。

しかし、日光奉行所が彼らを拒否したため、やむなく参拝にとどめるのみ。

後のことを思えば、この拒否は何かを予見していたようにも思えてきます。

『武田耕雲斎筑波山之図』/wikipediaより引用

武田耕雲斎はこのとき、小四郎を諌めています。

それでも小四郎は止まらない。それどころか斉昭の功臣である耕雲斎を首領にしたいと訴えるのです。

武田耕雲斎の嫡男・彦衛門は藤田東湖の妹・幾を妻にしておりました。彼らは姻戚関係にあり、無碍に断るのは難しい関係。仕方なく耕雲斎は小四郎に助力することとしました。

このとき、折れてしまったことこそが、武田一族を地獄へ追い込むことになるのでした。

 

天狗党の悪事

ここまでの経緯をたどった時点で、天狗党はあまり計画性がないとご理解いただけるでしょう。

資金源もそうでした。

挙兵したはよいものの、彼らには活動資金がありません。

天狗党だけの問題でもなく、水戸藩の体質にも悪しき慣習が染み付いていました。

御三家のプライドから石高を過大に申告し、財政は逼迫していながらも攘夷を掲げて船や大砲作りに挑みます。

『青天を衝け』では玉木宏さんが演じた砲術家・高島秋帆を高評価していたのも斉昭です。

ただし、船にせよ、大砲にせよ、出来上がったものは役に立たなかったそうで……。

確かにチャレンジそのものはよいことです。しかし、それも資金源があればのこと。大砲鋳造において、斉昭は悪どいことをやらかしました。

神道と儒教を尊ぶことを掲げ、仏教を弾圧し、藩内の寺から仏像や梵鐘を奪い、材料にしたのです。

こうして「困った時には強奪!というシステム」が水戸藩では成立してしまった。

しかも斉昭は民を「愚民」と見下す悪癖に染まっていた。喝を入れるとして、ことさら残酷なことをする性質もあった。支藩もこれを行い、水戸藩の民は大いに困っていたのです。

上層部がこの調子では、天狗党もそれに倣います。しかも武装している。隊士の中には「おもしろい戦がしたいから!」と冒険感覚の少年もいる。

かくして、天狗党の通る場所では最悪の事態が起きました。

命知らずの隊士たちが、白い鉢巻、襷をして、白い袴、ザンバラ頭でやってて、長脇差の鯉口を切りながら「金を出せ!」と凄むのです。

ちょっとでも戸惑ったり、反論しようものなら、大根のように人を即座に斬り捨ててしまう。

「天狗め……」

そう悪口を言っていたとわかっただけで、斬首された者すらいる。

中でも豊かな商人の街であった栃木宿の被害は甚大であり、そのうち人々は、白い姿を見るだけで逃げ出すようになりました。

天狗党の挙兵は明治以降「義挙」と称されましたが、地元の人々は「天狗騒ぎ」と苦々しく呼んでいたそうです。

金や食料を奪い、遊女屋に入り浸って大騒ぎする。

富豪の家に押しかけ、あるものを並べさせ、気に入ったものを届けるよう主人に言い渡す。

強奪、殺傷、放火……まさにリアル『北斗の拳』ですね。

天狗党内部でも「これでよいのか?」と諌める人はいたそうですが、議論になるばかりで、あらためる気配はなかったのでした。

やむなく対抗組織も出てきます。

竹槍や火縄銃で武装し、天狗党を泊めた家を襲撃、報復に焼き払い、これまた大騒ぎをやらかしました。

天狗党自身は「志が高いから天狗だ!」と考えていました。

しかし、襲撃された側からは「恐ろしい妖怪のようなものだから天狗なのだ……」と解釈していました。

その悪夢は長く人々の心に残ります。

 

幕府から追討されてしまい

天狗党の挙兵に対して、水戸藩では、市川三左衛門弘美、朝比奈弥太郎ら【諸生党】が巻き上がりに立ち上がります。

このとき武田耕雲斎(や山国兵部)は隠居謹慎させられ、天狗党は分裂を迎えていました。

過激な激派と、ソフトランディング路線の鎮派で、耕雲斎は後者に。

鎮派は江戸ヘ走り、『青天を衝け』では中島歩さんが演じる藩主・徳川慶篤(よしあつ)を説得にかかります。

これに対し諸生党では、市川らの命を受けた若手藩士らが結集し、江戸へ。

ちなみに諸生党とは「弘道館の学生」という意味です。

まとめると以下の通りです。

【天狗党】
斉昭、東湖の意を汲む下級藩士。改革派。志の高さを鼻の高さとかけ「天狗党」と名乗る。

天狗党の激派:武力行使も厭わない、藤田小四郎率いる血気盛んな派。

天狗党の鎮派:武田耕雲斎ら、説得で解決を図ろうとする派。

【諸生党】
上級藩士により構成される。徳川宗家を苦しめる尊王攘夷と、過激な改革に反発する一派。

天狗党と諸生党の間に立たされた藩主の徳川慶篤は、結果、諸生党の言い分に折れました。

つまり江戸藩邸は、諸生党が掌握。

幕府は天狗党の横暴を許さず、追討することを決め、遠江相良藩主・田沼意尊(たぬま おきたか)を総督としました。

なぜ天狗党はこうなることを予想できなかったのか?

おそらく彼らには過信があったのでしょう。

なんといっても烈公斉昭様は、我らがあってこそ藩主となった。

その子である藩主・慶篤公、そして将軍になった徳川慶喜様ならば、きっと我らを信じてくださる――そんな楽観視すら感じます。

徳川慶喜/wikipediaより引用

さほどに甘い計画であり、結果、水戸藩の混乱は凄まじいことになります。

支藩の松平頼徳が、慶篤の命令を受け、天狗党の説得をすることになり、ここに武田耕雲斎ら鎮派が加わります。

まとめると以下の図式です。

徳川慶篤:天狗党から諸生党支持に切り替え。切り替え前の命令を松平頼徳に出し、切り替え後は幕府に討伐を依頼する

松平頼徳:天狗党・武田耕雲斎らと水戸城に向かい、説得工作をする

田沼意尊:幕府軍を率い、天狗党討伐に向かう

しかし、水戸城にいる諸生党としては冗談では済まされません。

「武田耕雲斎がいる軍勢を水戸城に入れてたまるか!」

として「入る、入れない」と揉み合ううちに、幕府追悼軍の田村意尊が到着し混戦となってしまうのです。

彼らからすれば、天狗党と通じた松平頼徳が悪い。

そして……。

「この賊魁めが!」

敵と通じたとみなし、頼徳を切腹させたのです。

こうなると武田耕雲斎はどうしようもない。

天狗党の盟主として担ぎ上げられ、やむなく一発逆転を考え始めます。

尊王攘夷を掲げて、那珂湊から京都へ向かおう!

京都には帝、そして慶喜公がおわす!

きっと我々を労い、称えてくださる――。

なんといっても慶喜は慶篤の実弟であり、あの烈公最愛の子なのです。

総勢1000名を率いた武田耕雲斎は、武田信玄が使ったという馬印と「奉勅」という旗を掲げました。

馬には銀覆輪の鞍をつけ、緋縅に武田菱をあしらった甲冑を着込み、そして金色の采配を持ちました。

まるで戦国武将そのものの姿で勇ましく進んだ道。

実際に待ち構えていたのは地獄のような結末でした。

 

頼みの綱の慶喜も「天狗党を追討」

2021年、中国のロケット長征5号Bが世界をざわつかせました。

なぜロケットの話をするか?

というと名前の由来となった「長征」について触れておきたいからです。

1934年から1936年にかけ、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党軍)は、交戦しながら実に1万2500キロを徒歩で移動しました。

そのつらい行軍も、中国共産党が勝利したあとは、賞賛すべき偉大な苦労とされました。

天狗党の西上も、もしも成功していれば「長征」と呼ばれていたかもしれません。

綱紀粛正をしながら目指す京都。尊王旗を掲げ、斉昭が鋳造させた大砲を引きずっています。

大砲は重たく、行軍をより過酷なものにした上、発射した砲弾がボトリと落ちてしまう役に立たないものでしたが……。

日本魂!
奉勅!
攘夷!
報国!
赤心!
そして尊王攘夷!

彼らがすがるものは、尊王攘夷の水戸学と、斉昭の子である慶喜でした。

行手には困惑しつつ迎え撃つ、各藩の軍勢がおりました。

田沼意尊は追討するものの直接攻撃はせず、物資の補給を断ち、行く先々で迎撃させたのです。

中には尊王攘夷に理解を示し協力する者もいたとはいえ、あまりに無惨な消耗戦でした。

そんな天狗党に驚天動地の知らせが届きます。

「天狗党を追討します」

あろうことか慶喜自ら朝廷に対して彼らの討伐を願い出たのです。

もはや万策尽きた天狗党。

慶喜と対峙することだけは避けるべく、進路を変更し越前へ向かいました。

地元民すら避ける雪の難路を進むと、向かった先で待ち受けていたのが加賀藩。

もはやこれまで。天狗党は降伏を決意します。

 

悪臭極まりない鯡倉に押し込まれ

武田耕雲斎は、慶喜に降伏を願う訴状を送ることにしました。

慶喜の元で一橋家御用談下役を勤めていた渋沢栄一は、藤田小四郎と「畏友」と呼ぶあうほど親しくしていたので、この栄一を頼り、薄井龍之が訴状を渡そうとしたのです。

しかし、慶喜と栄一の主従はこれを受け付けず、読もうとすらしません。

このことを振り返り、栄一は「慶喜もきっと心苦しかっただろう」と語っておりましたが、その心中は不明です。

渋沢栄一/wikipediaより引用

かくして一縷の望みを断たれ、敦賀の寺に預けられた天狗党。

彼らの処遇は、藩や各人の立場によりかなり分かれていました。

気の毒だとみなされることもあれば、語ることそのものを避けるような反応もあります。

加賀藩は同情的でした。食事もきっちりと出していたのです。

しかし、幕府側に引き渡されると運命は暗転します。

罪人とされたのです。

彼らは雪の降る酷寒の中、着ていた衣服まで剥ぎ取られ、褌一丁にさせられ、足枷をつけられる者までおりました。

そして天狗党の面々は「鯡倉(にしんぐら)」に入れられました。

ニシンは肥料にも用いられます。そのためにすり潰したものを入れていた倉は、生臭く、底冷えがし、到底、人が寝起きするような場所ではありません。

その上、日の光が差し込む窓は塞がれ、倉には桶ひとつが置かれました。排泄用です。

天狗党が入れられた鰊倉は回天館として回天神社(水戸市)に移設/wikipediaより引用

真っ暗い倉の中には、ニシンと糞尿の悪臭が入り混じりました。

食欲も失せるような中、粗末な握り飯一個と水一杯が生かすためだけ放り込まれる。まさにそこは地獄でした。

最悪の環境の中では、皮膚病にかかり、血が出るほど全身を掻きむしってしまう者も出てきます。

病気に倒れて命を落とす者が続出したのは、当然の成り行きでしょう。

 

血で血を洗う復讐劇

天狗党の言い分が聞かれぬまま、時は過ぎてゆきます。

極めて簡単な吟味、いわば欠席裁判が行われ、運命は決まります。

この間、慶喜は兄である水戸藩主・慶篤、そして将軍後見職として徳川家茂の背に隠れ、素知らぬふりをしていました。

結局のところ、天狗党の熱意は片思いであり、無為の死を迎えたとしか言いようがありません。

かくして、藤田小四郎、武田耕雲斎を含めた352名の斬罪が決まりました。

他にも遠島、追放、水戸藩引き渡しなどが決定。

天狗党は5回に分けて斬首されることとなり、来迎寺の境内に穴が掘られ、血の池と化したその穴に首が放り込まれました。

享年63である武田耕雲斎も、同じく放り込まれたのです。

前述の通り、天狗党への感情は地域や立場によって異なります。

加賀藩は憐んでいたものの、むしろ復讐に血をたぎらせ斬首に挑んだ者たちもおります。

彦根藩の武士たちです。

水戸藩士たちに井伊直弼を暗殺された彼らからすれば、大願成就といえました。

井伊直弼/Wikipediaより引用

井伊直弼が起した安政の大獄による死罪が8名(獄死は含まず)ですから、それと比較しても凄まじい数だとわかります。

なぜ、これほどまでに壮絶な処刑が行われたのか?

要因は考えられます。

各地での戦闘に業を煮やした田村意尊の意思。そして、厳しい処断で責任回避をしたい、そんな慶喜の思惑です。

松平頼徳のように天狗党に親和的な態度をとれば、どうなるのかわかりません。

しかも武田耕雲斎に関する悲劇は、彼本人の死と辞世を紹介して終了というワケにもいきません。

むしろ彼の辞世は、このあと起こる悲劇を予見するかのようにも思えます。

◆武田耕雲斎の辞世

討つもはた 討たるるもはた 憐れなり 同じ日本の 乱れと思へば

咲く梅の 風に空しく 散るとても 匂ひは君が 袖にとまらん

塩漬けにされた耕雲斎の首が水戸に送られると、この夫の首を抱えさせられ、妻・延まで斬首されたのです。

それだけではありません。妾から子孫らも処刑。

あまりに幼い孫は泣き叫ぶところを押さえつけて、殺したとも伝わりますから言葉を失うばかりです。

他の天狗党メンバーも家族が処刑され、永牢(終身服役・明治維新後釈放されるも獄死者多数)に放り込まれてゆきました。

彼らに引導を渡したのは諸生党です。なまじ見知った顔に苦しめられた彼らの怒りは、もはや血で血を洗うことでしか解消できなかったのです。

この処刑は慶応元年(1865年)のこと。数年後には、幕府そのものが倒れます。

そのとき水戸には武田耕雲斎の孫・金次郎が戻ってきました。年少ゆえに遠島とされ、小浜藩に預けられていたのです。

彼は祖父や天狗党の復讐をすべく、諸生党を血祭りにあげてゆきました。

金次郎らは「細布(さいみ・布目の荒い麻)」の羽織を着て、水戸の街を闊歩し、「さいみ党」と称されました。

「さいみの羽織が来たぞ!」

誰かがそう叫ぶと、水戸の人々は血相をかえて逃げ惑ったのです。

諸生党を白昼堂々襲撃し、殺害するさいみ党は、悪鬼そのものであり、ついには内戦が勃発、諸生党は天狗党に敗北します。

その最中に戦闘に巻き込まれた弘道館も焼失したのです。

内戦を逃れた諸生党の中には、会津へ向け転戦するものもおりました。

一方で諸生党の首魁・市川弘美は東京に潜伏し、フランス渡航を計画していました。

しかし明治2年(1869年)に捕縛。そして4月、水戸郊外・長岡原でにおいて逆さ磔にされ、見せしめのように処刑されたのでした。

復讐の過程で、金次郎はあまりに血を流しすぎました。

そしてその残虐さゆえに悪評がたち、水戸にいられなくなり姿を消します。明治の世で目撃された彼は、困窮していたと伝わります。

 

そして誰もいなくなった

維新を成し遂げた薩長土肥――この中に水戸藩は入っていません。

幕末の前半、将軍継嗣問題の頃は重要な役割を果たしていた。

水戸学は思想面で原動力となった。

にも関わらず、明治政府の中枢に誰もいない。

凄惨な同士討ちや内戦を繰り返すうちに人材が枯渇してしまったのです。

明治以降、水戸藩出身者の活躍は途絶えたとすら言われます。

天狗党関係者は靖国神社に合祀され、死後官位を贈られたものもおります。

新選組、会津藩の白虎隊、西郷隆盛が「朝敵」とされ合祀されなかったことに対し、彼らは維新に殉じたとみなされているのです。

天狗党の辞世は『義烈回天百首』にも選ばれており、史跡にも「回天」とつくものが多い。

しかし、冷静に考えたいのは、彼らがどこまで維新を考えていたのかということです。

確かに「尊王攘夷」と掲げてはおりました。

ところが、国を思い、俯瞰的にみるどころか、目の前の敵をただただぶっ殺すことにまきこまれてゆく。そんな人間の業があると思えてきます。

天狗党、幕末水戸藩を追いかけていて疲労するのは、そびえたつ虚無があること。

処刑するにせよ、あまりに幼い子となると手足を押さえつけ、菓子を目の前にかざして首を伸ばしたところを斬首したというのですから、理解を超えています。

そんな、あまりに無意味な死に意味を見出すため、「維新の犠牲であった」と後付けをしたのではないか?

しかし慰霊をされて、納得できたかどうかは疑問です。

それは地元の反応やフィクションに反映されているのではないかと思えてきます。

令和の時代まで、天狗党をあつかった作品はあまり数がない。

あったところで、全く楽しくなければロールモデルにもならない。

天狗党に関する観光はどうでしょう。

例えば会津と比較すればわかりやすいかもしれません。

会津は内部抗争はしておらず、団結していました。

イギリス人医師・ウィリスが残した文書や一揆が起こったことから、武士と民衆は対立していたとみなされます。

しかしこれはそう単純なことでもなく、戦闘中の会津藩士が領民に庇われた逸話、埋葬した跡も多数残されているのです。

明治21年(1888年)なってから、磐梯山噴火に際して松平容保が見舞いをすると、人々は大いに感謝し、喜んだと伝わります。

観光目的だの揶揄されますが、会津が幕末のことを語り継ぎ、慰霊を欠かさず、フィクションでも取り上げられやすいのは、それだけ地元の人々が苦難を伝え顕彰していこうと努力していた証に他なりません。

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一方で、水戸はどうか。

天狗党と諸生党の争いは禍根を残し、長いこと検証において対立すらしていたと伝わります。

徳川斉昭と慶喜父子を顕彰しようにも、父が天狗党を煽り、子が虐殺したとなると、どうにも具合が悪い。

結局のところ、水戸の無難な歴史観光資源は、黄門様にされる。

観光資源としては影の薄い天狗党ですが、茨城県民の記憶と気質には残されているとされます。

天狗党の乱 WIkipediaより

水戸など茨城県の一部地域では、身内で争うことを「天狗」と呼ぶことがある。

水戸の三ぽい Wikipediaより

元は水戸藩の「水戸っぽ」の気質を表す言葉であった。かつては「日本のテロ史上に水戸出身者あり」と言われるほどであったが、今ではそうした義侠心は影を潜めている。

大河ドラマはどうでしょうか。

その凄惨さゆえか、天狗党の乱はあまり描かれません。

慶喜の生涯を描く上では、あまりに後味が悪く、大河ドラマ『徳川慶喜』でもそこまでじっくりとは描かれませんでした。

そして残念ながら2021年『青天を衝け』も同様でした。

渋沢栄一・徳川慶喜と天狗党の関わりがウヤムヤなまま物語は進められ、視聴者の多くは、その背景を知ることもなく、もはやドラマはフィナーレを迎えようとしています。

天狗党の嘆願を断った苦さは、渋沢栄一の胸に残っていました。

ゆえに、明治を経て、大正になってから、ようやく渋沢は故郷の血洗島に、天狗党2名を追悼する慰霊碑を建てています。

◆渋沢栄一デジタルミュージアム 薬師堂・水藩烈士弔魂碑(→link

しかし、残念なことに、大河という舞台で真の事情が描かれる機会は、もう一生遠ざかってしまったようにも見えます。

無残な死を迎えた者たちの気持ちを考えると、あまりにも哀しいではありませんか……。


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【参考文献】
『幕末諸隊録―崛起する草莽、結集する志士』(→amazon
芳賀 登『幕末志士の世界』(→amazon
歴史群像編集部『幕末維新人物事典』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

-幕末・維新
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