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【武田耕雲斎と天狗党の乱】
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頼みの綱の慶喜も「天狗党を追討」
2021年、中国のロケット長征5号Bが世界をざわつかせました。
なぜロケットの話をするか?
というと名前の由来となった「長征」について触れておきたいからです。
1934年から1936年にかけ、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党軍)は、交戦しながら実に1万2500キロを徒歩で移動しました。
そのつらい行軍も、中国共産党が勝利したあとは、賞賛すべき偉大な苦労とされました。
天狗党の西上も、もしも成功していれば「長征」と呼ばれていたかもしれません。
綱紀粛正をしながら目指す京都。尊王旗を掲げ、斉昭が鋳造させた大砲を引きずっています。
大砲は重たく、行軍をより過酷なものにした上、発射した砲弾がボトリと落ちてしまう役に立たないものでしたが……。
日本魂!
奉勅!
攘夷!
報国!
赤心!
そして尊王攘夷!
彼らがすがるものは、尊王攘夷の水戸学と、斉昭の子である慶喜でした。
だから徳川慶喜を将軍にしたらヤバい! 父の暴走と共に過ごした幼少青年期
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行手には困惑しつつ迎え撃つ、各藩の軍勢がおりました。
田沼意尊は追討するものの直接攻撃はせず、物資の補給を断ち、行く先々で迎撃させたのです。中には尊王攘夷に理解を示し協力する者もいたとはいえ、あまりに無惨な消耗戦でした。
そんな天狗党に驚天動地の知らせが届きます。
「天狗党を追討します」
あろうことか慶喜自ら朝廷に対して彼らの討伐を願い出たのです。
もはや万策尽きた天狗党。
慶喜と対峙することだけは避けるべく、進路を変更し越前へ向かいました。
地元民すら避ける雪の難路を進むと、向かった先で待ち受けていたのが加賀藩。
もはやこれまで。天狗党は降伏を決意します。
悪臭極まりない鯡倉に押し込まれ
武田耕雲斎は、慶喜に降伏を願う訴状を送ることにしました。
慶喜の元で一橋家御用談下役を勤めていた渋沢栄一は、藤田小四郎と「畏友」と呼ぶあうほど親しくしていたので、この栄一を頼り、薄井龍之が訴状を渡そうとしたのです。
しかし、慶喜と栄一の主従はこれを受け付けず、読もうとすらしません。
このことを振り返り、栄一は「慶喜もきっと心苦しかっただろう」と語っておりましたが、その心中は不明です。
かくして一縷の望みを断たれ、敦賀の寺に預けられた天狗党。
彼らの処遇は、藩や各人の立場によりかなり分かれていました。
気の毒だとみなされることもあれば、語ることそのものを避けるような反応もあります。
加賀藩は同情的でした。食事もきっちりと出していたのです。
しかし、幕府側に引き渡されると運命は暗転します。
罪人とされたのです。
彼らは雪の降る酷寒の中、着ていた衣服まで剥ぎ取られ、褌一丁にさせられ、足枷をつけられる者までおりました。
そして天狗党の面々は「鯡倉(にしんぐら)」に入れられました。
ニシンは肥料にも用いられます。そのためにすり潰したものを入れていた倉は、生臭く、底冷えがし、到底、人が寝起きするような場所ではありません。
その上、日の光が差し込む窓は塞がれ、倉には桶ひとつが置かれました。排泄用です。
真っ暗い倉の中には、ニシンと糞尿の悪臭が入り混じりました。
食欲も失せるような中、粗末な握り飯一個と水一杯が生かすためだけ放り込まれる。まさにそこは地獄でした。
最悪の環境の中では、皮膚病にかかり、血が出るほど全身を掻きむしってしまう者も出てきます。
病気に倒れて命を落とす者が続出したのは、当然の成り行きでしょう。
血で血を洗う復讐劇
天狗党の言い分が聞かれぬまま、時は過ぎてゆきます。
極めて簡単な吟味、いわば欠席裁判が行われ、運命は決まります。
この間、慶喜は兄である水戸藩主・慶篤、そして将軍後見職として徳川家茂の背に隠れ、素知らぬふりをしていました。
結局のところ、天狗党の熱意は片思いであり、無為の死を迎えたとしか言いようがありません。
かくして、藤田小四郎、武田耕雲斎を含めた352名の斬罪が決まりました。
他にも遠島、追放、水戸藩引き渡しなどが決定。
天狗党は5回に分けて斬首されることとなり、来迎寺の境内に穴が掘られ、血の池と化したその穴に首が放り込まれました。
享年63である武田耕雲斎も、同じく放り込まれたのです。
前述の通り、天狗党への感情は地域や立場によって異なります。
加賀藩は憐んでいたものの、むしろ復讐に血をたぎらせ斬首に挑んだ者たちもおります。
彦根藩の武士たちです。
水戸藩士たちに井伊直弼を暗殺された彼らからすれば、大願成就といえました。
井伊直弼が起した安政の大獄による死罪が8名(獄死は含まず)ですから、それと比較しても凄まじい数だとわかります。
なぜ、これほどまでに壮絶な処刑が行われたのか?
要因は考えられます。
各地での戦闘に業を煮やした田村意尊の意思。そして、厳しい処断で責任回避をしたい、そんな慶喜の思惑です。
松平頼徳のように天狗党に親和的な態度をとれば、どうなるのかわかりません。
しかも武田耕雲斎に関する悲劇は、彼本人の死と辞世を紹介して終了というワケにもいきません。
むしろ彼の辞世は、このあと起こる悲劇を予見するかのようにも思えます。
◆武田耕雲斎の辞世
討つもはた 討たるるもはた 憐れなり 同じ日本の 乱れと思へば
咲く梅の 風に空しく 散るとても 匂ひは君が 袖にとまらん
塩漬けにされた耕雲斎の首が水戸に送られると、この夫の首を抱えさせられ、妻・延は斬首されたのです。
それだけではありません。妾から子孫まで処刑。
あまりに幼い孫は泣き叫ぶところを押さえつけて、殺したとも伝わりますから言葉を失うばかりです。
他の天狗党メンバーも家族が処刑され、永牢(終身服役・明治維新後釈放されるも獄死者多数)に放り込まれてゆきました。
彼らに引導を渡したのは諸生党です。なまじ見知った顔に苦しめられた彼らの怒りは、もはや血で血を洗うことでしか解消できなかったのです。
この処刑は慶応元年(1865年)のこと。数年後には、幕府そのものが倒れます。
そのとき水戸には武田耕雲斎の孫・金次郎が戻ってきました。年少ゆえに遠島とされ、小浜藩に預けられていたのです。
彼は祖父や天狗党の復讐をすべく、諸生党を血祭りにあげてゆきました。
金次郎らは「細布(さいみ・布目の荒い麻)」の羽織を着て、水戸の街を闊歩し、「さいみ党」と称されました。
「さいみの羽織が来たぞ!」
誰かがそう叫ぶと、水戸の人々は血相をかえて逃げ惑ったのです。
諸生党を白昼堂々襲撃し、殺害するさいみ党は、悪鬼そのものであり、ついには内戦が勃発、諸生党は天狗党に敗北します。
その最中に戦闘に巻き込まれた弘道館も焼失したのです。
内戦を逃れた諸生党の中には、会津へ向け転戦するものもおりました。
一方で諸生党の首魁・市川弘美は東京に潜伏し、フランス渡航を計画していました。
しかし明治2年(1869年)に捕縛。そして4月、水戸郊外・長岡原でにおいて逆さ磔にされ、見せしめのように処刑されたのでした。
復讐の過程で、金次郎はあまりに血を流しすぎました。
そしてその残虐さゆえに悪評がたち、水戸にいられなくなり姿を消します。明治の世で目撃された彼は、困窮していたと伝わります。
そして誰もいなくなった
維新を成し遂げた薩長土肥――この中に水戸藩は入っていません。
幕末の前半、将軍継嗣問題の頃は重要な役割を果たしていた。
水戸学は思想面で原動力となった。
にも関わらず、明治政府の中枢に誰もいない。
凄惨な同士討ちや内戦を繰り返すうちに人材が枯渇してしまったのです。
明治以降、水戸藩出身者の活躍は途絶えたとすら言われます。
天狗党関係者は靖国神社に合祀され、死後官位を贈られたものもおります。
新選組、会津藩の白虎隊、西郷隆盛が「朝敵」とされ合祀されなかったことに対し、彼らは維新に殉じたとみなされているのです。
天狗党の辞世は『義烈回天百首』にも選ばれており、史跡にも「回天」とつくものが多い。
しかし、冷静に考えたいのは、彼らがどこまで維新を考えていたのかということです。
確かに「尊王攘夷」と掲げてはおりました。
ところが、国を思い、俯瞰的にみるどころか、目の前の敵をただただぶっ殺すことにまきこまれてゆく。そんな人間の業があると思えてきます。
天狗党、幕末水戸藩を追いかけていて疲労するのは、そびえたつ虚無があること。
処刑するにせよ、あまりに幼い子となると手足を押さえつけ、菓子を目の前にかざして首を伸ばしたところを斬首したというのですから、理解を超えています。
そんな、あまりに無意味な死に意味を見出すため、「維新の犠牲であった」と後付けをしたのではないか?
しかし慰霊をされて、納得できたかどうかは疑問です。
それは地元の反応やフィクションに反映されているのではないかと思えてきます。
令和の時代まで、天狗党をあつかった作品はあまり数がない。
あったところで、全く楽しくなければロールモデルにもならない。
天狗党に関する観光はどうでしょう。
例えば会津と比較すればわかりやすいかもしれません。
会津は内部抗争はしておらず、団結していました。
イギリス人医師・ウィリスが残した文書や一揆が起こったことから、武士と民衆は対立していたとみなされます。
しかしこれはそう単純なことでもなく、戦闘中の会津藩士が領民に庇われた逸話、埋葬した跡も多数残されているのです。
明治21年(1888年)なってから、磐梯山噴火に際して松平容保が見舞いをすると、人々は大いに感謝し、喜んだと伝わります。
観光目的だの揶揄されますが、会津が幕末のことを語り継ぎ、慰霊を欠かさず、フィクションでも取り上げられやすいのは、それだけ地元の人々が苦難を伝え顕彰していこうと努力していた証に他なりません。
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一方で、水戸はどうか。
天狗党と諸生党の争いは禍根を残し、長いこと検証において対立すらしていたと伝わります。
徳川斉昭と慶喜父子を顕彰しようにも、父が天狗党を煽り、子が虐殺したとなると、どうにも具合が悪い。
結局のところ、水戸の無難な歴史観光資源は、黄門様にされる。
観光資源としては影の薄い天狗党ですが、茨城県民の記憶と気質には残されているとされます。
天狗党の乱 WIkipediaより
水戸など茨城県の一部地域では、身内で争うことを「天狗」と呼ぶことがある。
水戸の三ぽい Wikipediaより
元は水戸藩の「水戸っぽ」の気質を表す言葉であった。かつては「日本のテロ史上に水戸出身者あり」と言われるほどであったが、今ではそうした義侠心は影を潜めている。
大河ドラマはどうでしょうか。
その凄惨さゆえか、天狗党の乱はあまり描かれません。
慶喜の生涯を描く上では、あまりに後味が悪く、大河ドラマ『徳川慶喜』でもそこまでじっくりとは描かれませんでした。
そして残念ながら2021年『青天を衝け』も同様でした。
渋沢栄一・徳川慶喜と天狗党の関わりがウヤムヤなまま物語は進められ、視聴者の多くは、その背景を知ることもなく、もはやドラマはフィナーレを迎えようとしています。
天狗党の嘆願を断った苦さは、渋沢栄一の胸に残っていました。
ゆえに、明治を経て、大正になってから、ようやく渋沢は故郷の血洗島に、天狗党2名を追悼する慰霊碑を建てています。
◆渋沢栄一デジタルミュージアム 薬師堂・水藩烈士弔魂碑(→link)
しかし、残念なことに、大河という舞台で真の事情が描かれる機会は、もう一生遠ざかってしまったようにも見えます。
無残な死を迎えた者たちの気持ちを考えると、あまりにも哀しいではありませんか……。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『幕末諸隊録―崛起する草莽、結集する志士』(→amazon)
芳賀 登『幕末志士の世界』(→amazon)
歴史群像編集部『幕末維新人物事典』(→amazon)
他