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【武田耕雲斎と天狗党の乱】
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天狗党、挙兵す
大河ドラマ『青天を衝け』では藤原季節さん演じる四男・藤田小四郎。
史実の小四郎は文久3年(1863年)に上洛、京都で長州藩士と交流を深めました。
水戸藩で生まれ、長州藩が醸成した尊王攘夷にのめりこんでいったのです。
小四郎は将軍後見役の慶喜に従い帰国すると、天狗党を率いるようにます。
水戸藩では斉昭擁立以来、身分は低いながらも改革を掲げる者が重用されました。
天狗とは、鼻が高いのではなく志が高いという意味。
卑しい生まれのくせに調子に乗っているとやっかみを込めて呼ばれていたものを、かえって志が高いのだと、自ら名乗るようになったのです。
天狗党は武士だけでなく、豪農層も加えてゆきました。
藩内には郷校(ごうこう)という農民向けの教育機関があり、幕末の関東では、こうした智勇を備えた豪農層が育っていたのです。
尊王攘夷と改革を掲げれば武士になれる! そう張り切り、彼らは天狗党に参加するのです。
まだ十代、血気盛んで、戦は面白いからと参加した少年たちもいました。12歳の隊士もいたというのですから驚かされます。あやしげな侠客の姿を見たという証言もあります。
そして元治元年(1864年)3月27日。
膨れ上がった天狗党を率い、小四郎と田丸稲之衛門は筑波山で挙兵しました。
斉昭の神位を入れた神輿を担ぎ、日光東照宮を目指す――。
ここから兵をあげることには大きな意志と、斉昭の影響も感じられます。ともかく強引で、幕政に口を挟むことで知られ、水戸こそ徳川宗家になり代われると言いたげな態度が見えたのです。
しかし、日光奉行所が彼らを拒否したため、やむなく参拝にとどめるのみ。
後のことを思えば、この拒否は何かを予見していたようにも思えてきます。
武田耕雲斎はこのとき、小四郎を諌めています。
それでも小四郎は止まらない。それどころか斉昭の功臣である耕雲斎を首領にしたいと訴えるのです。
武田耕雲斎の嫡男・彦衛門は藤田東湖の妹・幾を妻にしておりました。彼らは姻戚関係にあり、無碍に断るのは難しい関係。仕方なく耕雲斎は小四郎に助力することとしました。
このとき、折れてしまったことこそが、武田一族を地獄へ追い込むことになるのでした。
天狗党の悪事
ここまでの経緯をたどった時点で、天狗党はあまり計画性がないとご理解いただけるでしょう。
資金源もそうでした。
挙兵したはよいものの、彼らには活動資金がありません。
天狗党だけの問題でもなく、水戸藩の体質にも悪しき慣習が染み付いていました。
御三家のプライドから石高を過大に申告し、財政は逼迫していながらも攘夷を掲げて船や大砲作りに挑みます。
『青天を衝け』では玉木宏さんが演じた砲術家・高島秋帆を高評価していたのも斉昭です。
ただし、船にせよ、大砲にせよ、出来上がったものは役に立たなかったそうで……。
確かにチャレンジそのものはよいことです。しかし、それも資金源があればのこと。大砲鋳造において、斉昭は悪どいことをやらかしました。
神道と儒教を尊ぶことを掲げ、仏教を弾圧し、藩内の寺から仏像や梵鐘を奪い、材料にしたのです。
こうして「困った時には強奪!というシステム」が水戸藩では成立してしまった。
しかも斉昭は民を「愚民」と見下す悪癖に染まっていた。喝を入れるとして、ことさら残酷なことをする性質もあった。支藩もこれを行い、水戸藩の民は大いに困っていたのです。
上層部がこの調子では、天狗党もそれに倣います。しかも武装している。隊士の中には「おもしろい戦がしたいから!」と冒険感覚の少年もいる。
かくして、天狗党の通る場所では最悪の事態が起きました。
命知らずの隊士たちが、白い鉢巻、襷をして、白い袴、ザンバラ頭でやってて、長脇差の鯉口を切りながら「金を出せ!」と凄むのです。
ちょっとでも戸惑ったり、反論しようものなら、大根のように人を即座に斬り捨ててしまう。
「天狗め……」
そう悪口を言っていたとわかっただけで、斬首された者すらいる。
中でも豊かな商人の街であった栃木宿の被害は甚大であり、そのうち人々は、白い姿を見るだけで逃げ出すようになりました。
天狗党の挙兵は明治以降「義挙」と称されましたが、地元の人々は「天狗騒ぎ」と苦々しく呼んでいたそうです。
金や食料を奪い、遊女屋に入り浸って大騒ぎする。
富豪の家に押しかけ、あるものを並べさせ、気に入ったものを届けるよう主人に言い渡す。
強奪、殺傷、放火……まさにリアル『北斗の拳』ですね。
天狗党内部でも「これでよいのか?」と諌める人はいたそうですが、議論になるばかりで、あらためる気配はなかったのでした。
やむなく対抗組織も出てきます。
竹槍や火縄銃で武装し、天狗党を泊めた家を襲撃、報復に焼き払い、これまた大騒ぎをやらかしました。
天狗党自身は「志が高いから天狗だ!」と考えていました。
しかし、襲撃された側からは「恐ろしい妖怪のようなものだから天狗なのだ……」と解釈していました。
その悪夢は長く人々の心に残ります。
幕府から追討されてしまい
天狗党の挙兵に対して、水戸藩では、市川三左衛門弘美、朝比奈弥太郎ら【諸生党】が巻き上がりに立ち上がります。
このとき武田耕雲斎(や山国兵部)は隠居謹慎させられ、天狗党は分裂を迎えていました。
過激な激派と、ソフトランディング路線の鎮派で、耕雲斎は後者に。
鎮派は江戸ヘ走り、『青天を衝け』では中島歩さんが演じる藩主・徳川慶篤(よしあつ)を説得にかかります。
これに対し諸生党では、市川らの命を受けた若手藩士らが結集し、江戸へ。
ちなみに諸生党とは「弘道館の学生」という意味です。
まとめると以下の通りです。
【天狗党】
斉昭、東湖の意を汲む下級藩士。改革派。志の高さを鼻の高さとかけ「天狗党」と名乗る。
天狗党の激派:武力行使も厭わない、藤田小四郎率いる血気盛んな派。
天狗党の鎮派:武田耕雲斎ら、説得で解決を図ろうとする派。
【諸生党】
上級藩士により構成される。徳川宗家を苦しめる尊王攘夷と、過激な改革に反発する一派。
天狗党と諸生党の間に立たされた藩主の徳川慶篤は、結果、諸生党の言い分に折れました。
つまり江戸藩邸は、諸生党が掌握。
幕府は天狗党の横暴を許さず、追討することを決め、遠江相良藩主・田沼意尊(たぬま おきたか)を総督としました。
なぜ天狗党はこうなることを予想できなかったのか?
おそらく彼らには過信があったのでしょう。
なんといっても烈公斉昭様は、我らがあってこそ藩主となった。
その子である藩主・慶篤公、そして将軍になった徳川慶喜様ならば、きっと我らを信じてくださる――そんな楽観視すら感じます。
さほどに甘い計画であり、結果、水戸藩の混乱は凄まじいことになります。
支藩の松平頼徳が、慶篤の命令を受け、天狗党の説得をすることになり、ここに武田耕雲斎ら鎮派が加わります。
まとめると以下の図式です。
徳川慶篤:天狗党から諸生党支持に切り替え。切り替え前の命令を松平頼徳に出し、切り替え後は幕府に討伐を依頼する
松平頼徳:天狗党・武田耕雲斎らと水戸城に向かい、説得工作をする
田沼意尊:幕府軍を率い、天狗党討伐に向かう
しかし、水戸城にいる諸生党としては冗談では済まされません。
「武田耕雲斎がいる軍勢を水戸城に入れてたまるか!」
として「入る、入れない」と揉み合ううちに、幕府追悼軍の田村意尊が到着し混戦となってしまうのです。
彼らからすれば、天狗党と通じた松平頼徳が悪い。
そして……。
「この賊魁めが!」
敵と通じたとみなし、頼徳を切腹させたのです。
こうなると武田耕雲斎はどうしようもない。
天狗党の盟主として担ぎ上げられ、やむなく一発逆転を考え始めます。
尊王攘夷を掲げて、那珂湊から京都へ向かおう!
京都には帝、そして慶喜公がおわす!
きっと我々を労い、称えてくださる――。
なんといっても慶喜は慶篤の実弟であり、あの烈公最愛の子なのです。
総勢1000名を率いた武田耕雲斎は、武田信玄が使ったという馬印と「奉勅」という旗を掲げました。
馬には銀覆輪の鞍をつけ、緋縅に武田菱をあしらった甲冑を着込み、そして金色の采配を持ちました。
まるで戦国武将そのものの姿で勇ましく進んだ道。
実際に待ち構えていたのは地獄のような結末でした。
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