身分の高い人同士のお付き合いは、ときに数百年単位に及びます。
「ウチの先祖がお世話になりました。当代もよろしくお願いいたします」というわけですね。
・代々◯◯家に仕えている
・◆◆時代からの家臣
なんて表現も用いられたりしますが、場合によってはこの関係も一気に崩れてしまうもので……。
明治二十二年(1889年)11月18日は、最後の津藩主・藤堂高潔(たかきよ)が亡くなった日です。
実は戊辰戦争で「裏切り」の藩主でもあるわけですが、当時の高潔がどのように思って行動したのか……ということは、意外なほど伝わっていません。
ならば何も把握できないのか?
といったらそうではなく、藩祖以降の藤堂家の動きを見ていくと、これがどういうことなのかを推し量ることはできるかもしれません。
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家康に「先手を任せる!」と言わしめた藤堂家
津藩の初代藩主は「戦国の転職王」こと藤堂高虎です。
「七回主を変えた」ことから、儒教が重んじられた江戸時代ではとかく評判の悪い人物です。
しかし「状況に応じて主を変える」事自体は、戦国時代では悪いことではありません。
後世の価値観で古い時代の善悪を決めつけることはできない、という好例ですね。現代日本人の感覚からしても気分のいい話ではないかもしれませんが。
ともかく当時の転職が悪くなかったその証拠に、江戸幕府にとって”神君”である徳川家康は「徳川家の先手は藤堂家に任せる」と言ったほど、信頼を寄せています。
そのおかげで高虎は、国元の城や城下町の建設、藩政の仕組みなどを、自身の存命中におおよそ作り上げることができました。
二代目高次から十一代目高猷(たかゆき)まで
二代藩主・藤堂高次も先のことをよく考えていた人でした。
幕府の押しつけ普請による出費で苦しみながらも、三代藩主・藤堂高久に地位を譲る際、将来のことを考えて次男の藤堂高通(たかみち)に支藩の久居藩を作らせています。
その予想通り、四代・藤堂高睦(たかちか)で高虎の直系が絶えてしまったため、それ以降は久居藩主を経由して津藩の主になった者も多くなりました。
しかし、同時期にやっぱり幕府の命令で大規模な普請をさせられたり、天災が相次いで藩財政は悪化の一途をたどります。
まあ、この辺はどこの藩も似たようなものですが。
さらに時が流れ、九代・藤堂高嶷(たかさと)は財政再建のため改革を試みました。
これが結果を急ぎすぎて、家臣からも庶民からも反発を受けてしまいます。
その息子である十代藩主・藤堂高兌(たかさわ)がその辺をうまく調整し、倹約・綱紀粛正とともに植林や養蚕を始め、改革を成功させました。トーチャンの背中を見て加減できたのかもしれませんね。
しかしその次である十一代・藤堂高猷(たかゆき)の頃、再び凶作や地震などで財政がマイナスの方向に限界突破してしまいます。
勅使から「朝敵扱いするよ」と迫られやむを得ず
高猷の代になって津藩の負債は膨らみ、明治時代までに212万両もの額に膨らんだそうです。
江戸時代の1両をだいたい12~20万円と換算しますと、2,544~4,240億円の借金があったことになります。計算するだけで血の気が引きますね。
津藩はそんな状態で幕末・戊辰戦争に突入したわけです。
むろん自藩の失策も原因の一つではあります。
しかし借金の半分くらいは幕府から命じられた普請によるものだったでしょう。
しかも返済に協力してくれるわけでもないのですから、津藩でなくたって「もう幕府はいいや」と思うのも当然の話。
それでも津藩は戊辰戦争が始まるまで中立的な立ち位置にいて、鳥羽・伏見の戦いでも当初は幕府軍に属していました。
そんな折、勅使(天皇からの直接送られる使者)が「こっちにつかないと朝敵扱いにするけどいいよね」(超訳)と半ば脅迫してきたため、やむなく新政府軍側についたのです。
一応、現場の指揮官は「大切なことなので、藩主様の指示を受けたい」と言ったそうですが、勅使が聞き入れず「錦の御旗」を掲げたため、断りきれなかったとか。
そのせいで幕府軍からは「裏切り者」「藩祖高虎の教えが行き届いていて羨ましいことよ」などとそしられることになるわけですが……。
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