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【藤堂高潔】
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藤堂家にとって「徳川家の先手」は絶対的!?
そもそも大政奉還も戊辰戦争も、非常にドタバタした展開で進められたので、幕末政治の中枢に携わっていない限り、その場の判断は非常に難しいものでした。
実際、津藩にしても、徳川家康への恩義は十分に感じていました。
高虎が亡くなる前、家康に「私が死んだら、殉死しようと考えている者が数十人います。皆お役に立つ者ですから、上意をもって止めてください」と言ったことがあります。
これを受けてほとんどの者は「上意」ということで従いました。
その中でゴネたのは、戦傷により右腕を失った者だけだったそうです。
「自分は太平の世では役に立たないから、どうか高虎様のお供をさせてください」と……泣ける(´;ω;`)ブワッ
そう言われると高虎もその場では強く命じることができず、再び家康にお伺いを立てました。
そこで家康は「あくまで上意を聞かないというのなら、藤堂家の先手は取り消す」と厳命しています。
「家の名誉と個人の意地、どちらを取る気だ」と迫ったわけです。
これにはさすがに片腕の武士も逆らえず、高虎の死去時に殉死する者は出なかった……といわれています。
つまり、藤堂家にとって家康の命令、そして「徳川家の先手」という立場は絶対的なもののはずでした。
日光東照宮への攻撃は拒み
そんな状況であったにもかかわらず、戊辰戦争が始まり、幕府側から「裏切り者」などと批判された藤堂家。
辛い状況ですよね。
幕府としては、もっと事前に手を打つべきだった気がしてなりません。
むしろ、藤堂家のモットーは「一度立場を決めたからには全力を尽くす」ことかと思われます。
そもそも転職王の藤堂高虎にしても、豊臣秀長には忠義を尽くし、秀長(と秀保)が亡くなるまで仕え、二人の死後はいったん高野山に引っ込んだほどです。
まぁ、混乱の場面でそんなこと言っても仕方ないんですけどね。
その後、藤堂家の人々は新政府軍の先手として各所で戦っています。
ただ、日光東照宮への攻撃は拒んでいます。
「藩祖が賜った大恩がある」というもので、徳川家全体というより家康への恩を忘れなかった……とみるべきかと。
結果、明治維新後の藤堂家は安泰とはなりませんでした。
版籍奉還で一度藩知事になったものの、直後の廃藩置県でクビになってしまっています。
働きに報いてくれないのは新政府のお約束ですね。これだから藩閥政治は……。
高潔(たかきよ)は書や絵の才能に優れた文化人で、温厚な人柄だったそうなので、表立って不満を口に出すことはなかったようです。
クビになってから亡くなるまで18年ほどあり、その間は穏やかに過ごせていたとみていいでしょう。
父の高猷(たかゆき)に先立ってしまっているのが不幸なところですが……時代が変わったおかげで改易やお家騒動にならずに済んだととらえれば、マシなほうでしょうか。
よろしければ藤堂高虎さんの記事も併せてご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典【上】』(→amazon)
藤堂高潔/wikipedia
藤堂高猷/wikipedia
津藩/wikipedia
藤堂高虎/wikipedia