明治元年(1868年)11月19日は、明治政府が築地に外国人居留地を設置した日です。
開港した場所でもないのに、外国人用の住居を用意するというのも不思議ですね。
しかも、当時は戊辰戦争(箱館戦争)の真っ最中。
なぜ新政府はそんな対応をしたのでしょうか。

外国人居留地の商人たち/Wikipediaより引用
「外国人には特定エリアに住んでもらおう」
実は、戊辰戦争中にも外国人はたくさん来日していました。
そもそも当時の戦闘では西洋の武器がたくさん用いられておりますし、それらを売るための西洋商人がアッチコッチから訪れていたのです。
しかし、当時はまだ過激な尊王攘夷派が残っていて、西洋商人・公人のトラブルが多発。
新政府が色々話し合った結果、
「外国人には特定の場所に住んでもらってもらおう。用があるならこっちから出向けばいい」(※イメージです)
ということになりました。
こうして開港した横浜や神戸などのほか築地など、港に出やすい場所に居留地が作られたのです。

歌川貞秀『東海道名所之内横濱風景』(1860年)/wikipediaより引用
といっても、全ての居留地が同じように作られていたわけではなく、また外国人からの印象も異なっていました。
一か所ずつ簡潔に見て参りましょう。
東京:築地居留地ではミッションスクールが生まれ
当時、東京港はまだ開かれていません。
ただし、市場は開放されていたため、外国人の便宜を図る目的で、現在の中央区明石町(聖路加国際病院付近)に居留地が作られました。
既に横浜に大規模な居留地ができていたので、ほとんどの外国商人は築地には住まなかったそうです。
せっかく用意したのに(´・ω・`)

江戸築地鉄砲洲外国人居留区全景(1862年)/wikipediaより引用
一方で宣教師たちが築地にやってきて教会や学校を作り、この地を発祥とするミッションスクールにとってはゆかりの地となりました。
有名どころでは、青山学院などが築地居留地付近を発祥の地の一つとしています。
当時、日本ではまだキリスト教が禁じられていたので、外国人居留地の中でもないと、おおっぴらにキリスト教の教義を広めることができなかったからでしょうね。
また、アメリカ公使館も、当初は築地に作られました。
その後、赤坂に移転していますので、当時の面影はほとんどありません。
さらには聖路加病院も、元々は外国人居留地にあった病院を宣教医師のルドルフ・B・トイスラーが買い取ったことが始まりだったりしますね。
神奈川:横浜居留地は寒村がハイカラな町に
開港した場所として一番有名な横浜。
もちろん大規模な居留地が作られました。
開港直後から、山下町を中心とする山下居留地が存在しています。

横浜外国人居留地地図/Wikipediaより引用
当時は、西洋建築や西洋人の生活様式がサッパリわかっていなかった頃だったので、建物は純日本家屋だったそうです。
西洋人たちは困惑したでしょうね。
最初に来たときは「とりあえずお寺なら安全だから、そこで話をしましょう」ということでお寺が大使館代わりになるのは納得できるでしょう。
しかし「今度は皆さんが住みやすい場所をちゃんと作りますから」って聞いてたのに、実際は「今までと変わらん(´・ω・`)」てなわけです。
その後たびたび拡張され、関内や山手のほうにも西洋風の住居や商社が広がり、元は寒村だった横浜がハイカラな町になるきっかけとなりました。
残念ながら、関東大震災などにより、当時の建物はほとんど残っていませんが……。

明治時代の横浜本町通り/wikipediaより引用
「ヨーロッパの掃き溜め」「破廉恥の見本」
しかし、全体の人数が増えればトラブルも比例します。
当時の駐日英国公使などの公人によると、「ヨーロッパの掃き溜め」「破廉恥の見本」と称するような状態だったといいます。
公人と商人の関係も決して良くなかったとか。
「よそでケンカすんなよ」とツッコミたいところですが、「地元じゃ鳴かず飛ばずだけど、東洋の新しい国でガッポリ儲けてやるぜ!」とやってきた、犯罪者ギリギリの商人も少なからずいたので、手癖足癖が良くない人も少なくなかったのです。
それだけに治安も危ぶまれ、警察機能をどうするかで、少々手間がかかっています。これは他の居留地でも同じだったようで。
【生麦事件】で一人だけ生き残ったイギリス人女性が逃げ戻ってきたのも、横浜居留地です。
そのため、横浜居留地の安全については西洋のほうでも敏感になっており、1875年までは英仏軍が駐屯しています。
大阪:川口居留地では船の出入りできず……
大阪では海側の入り口にあたる、安治川・木津川の分岐点に居留地が作られました。
現在の地名では大阪府大阪市西区川口付近にあたり、その立地から、大阪居留地、または大阪川口居留地とも呼ばれました。
しかし、地形上大きな船が出入りできず、港が整うよりも先に、商人たちは神戸へ移転してしまったので、あまり発展することはなかったようです。
またか……(´・ω・`)
商売の拠点としては成り立ちませんでしたが、築地と同様(?)に宣教師たちの拠点となり、やはりミッションスクール発祥の地となっています。
当時の建物は現存していません。
近い時代(1920年)に竣工した川口基督教会で、何となく雰囲気をうかがうことはできます。

川口基督教会/photo by ignis wikipediaより引用
兵庫:神戸居留地は東洋で最も住みやすい
横浜と並んで、ハイカラな町として知られる神戸。
ここにも大規模な居留地が作られました。
兵庫港自体が横浜や長崎より9年遅れて開港したため、他の居留地の失敗点を学ぶことができ、国内どころか「東洋で最も住みよい居留地」だったといわれています。
それだけに西洋人にも好まれ、西洋の食文化やスポーツなども盛んになり、兵庫から広まったものが多くなりました。
ただ、衛生状況はあまりよくなかったようで、初期の頃はチフスが多発したといわれています。
「天然痘やコレラもヤバそう」な状況だった(そして日本側があまり良い対応をしなかった)ために、居留地の外国人たちが主導して病院を作りました。
やはり戦時中の空襲でほとんどの建物が焼けてしまいましたが、規模がデカくなりすぎて六甲山麓まで住宅地が広がっていたため、その付近の建物が戦災を免れて残っています。
いかにも貴族のお屋敷といった感じのものから、アパルトマン(家具付きアパート)までいろいろな様式の建物が並んでいて、外観だけでも面白い。
中にはドレスやシャーロック・ホームズ風のコスプレを楽しむことができるところもあるとか。
歴史的事件に絡むところでいうと、神戸居留地は1886年(明治十九年)のノルマントン号事件(イギリスの貨物船が日本人の遭難者を見捨てた事件)に関する査問会と予審が行われた場所でもあります。
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受験生の皆さんは「生麦事件は横浜、ノルマントン号事件は神戸」と関連付けておくといいかもしれません。
長崎:長崎居留地は欧米人が保養地に選ぶ
江戸時代は唯一の貿易港として知られていた長崎。
幕末以降は、横浜や神戸が賑わったため、一味違った発展をすることになります。
上海などに駐留する欧米人が、保養先として長崎を選ぶようになったのです。
元から出島に出入りしていた娼館などもありましたので、いろいろな面で都合が良かったのでしょう。
坂が多く景観が良いこと、近隣に雲仙温泉があることなども、保養地として好まれる一因になったようです。
居留地の周囲に中華街ができる
この他、箱館(函館)や新潟も開港されてはおりました。
外国人があまり多くなかったためか、どちらも居留地としては発展せず、フツーに市街地に住んでいたそうです。
いきなりお隣さんが外国人になって、面食らった人もいたかもしれませんね。
外国人居留地は、もう一つ変わった影響を残しています。
当時外国人は、中国を経由して来ることが多かったので、通訳などのために中国人が同行してくることが珍しくありませんでした。
「日本では漢字が使えるから」という理由だったそうですが……それって、日本に来た後トラブルにならなかったんですかね。
まぁともかく、そんな感じで外国人居留地の周辺には、中国人も多く住むようになります。
そして、日本と中国各地の間に定期船航路が作られると、さらに中国系の人々が増えていきました。
隣国とはいえ知らない土地ですから、同郷の人々がいるところに集まるのはごく自然なこと。ニューヨークのリトル◯◯も、元はそんな感じで始まったと言いますし。
そんな流れで、中国系の人々によって、横浜・神戸・長崎に中華街が作られました。
中でも横浜は飲食業を営む人が多かったため、今日までその状態が続いているというわけです。
同じ中国語でも地方ごとに全く違うことも珍しくないので、中国人同士でもうまくいくとは限らないそうですが。
それでも100年くらいは同じところでやってきていることになりますし、他の外国人があまり日本に定着しなかった事を考えると、エネルギッシュというかガッツがあるというか。
世界中どこに行っても中華料理が美味しいのも、なんだかわかる気がします。
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【参考】
国史大辞典
梅渓昇『お雇い外国人――明治日本の脇役たち (講談社学術文庫)』(→amazon)
小島英記『幕末維新を動かした8人の外国人』(→amazon)
外国人居留地/Wikipedia
旧川口居留地/Wikipedia
神戸外国人居留地/Wikipedia
居留地警察/Wikipedia
横浜中華街/Wikipedia




