明治元年(1868年)11月19日は、明治政府が築地に外国人居留地を設置した日です。
開港した場所でもないのに、外国人用の住居を用意するというのも不思議ですね。
なぜ新政府はそんな対応をしたのでしょうか。
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「外国人には特定エリアに住んでもらおう」
実は、戊辰戦争中にも外国人はたくさん来日していました。
そもそも当時の戦闘では西洋の武器がたくさん用いられておりますし、それらを売るための西洋商人がアッチコッチから訪れていたのです。
しかし、当時はまだ過激な尊王攘夷派が残っていて、西洋商人・公人のトラブルが多発。
新政府が色々話し合った結果、
「外国人には特定の場所に住んでもらってもらおう。用があるならこっちから出向けばいい」(※イメージです)
ということになりました。
こうして開港した横浜や神戸などのほか築地など、港に出やすい場所に居留地が作られたのです。
といっても、全ての居留地が同じように作られていたわけではなく、また外国人からの印象も異なっていました。
一か所ずつ簡潔に見て参りましょう。
東京:築地居留地ではミッションスクールが生まれ
当時、東京港はまだ開かれていません。
ただし、市場は開放されていたため、外国人の便宜を図る目的で、現在の中央区明石町(聖路加国際病院付近)に居留地が作られました。
既に横浜に大規模な居留地ができていたので、ほとんどの外国商人は築地には住まなかったそうです。
せっかく用意したのに(´・ω・`)
一方で宣教師たちが築地にやってきて教会や学校を作り、この地を発祥とするミッションスクールにとってはゆかりの地となりました。
有名どころでは、青山学院などが築地居留地付近を発祥の地の一つとしています。
当時、日本ではまだキリスト教が禁じられていたので、外国人居留地の中でもないと、おおっぴらにキリスト教の教義を広めることができなかったからでしょうね。
また、アメリカ公使館も、当初は築地に作られました。
その後、赤坂に移転していますので、当時の面影はほとんどありません。
さらには聖路加病院も、元々は外国人居留地にあった病院を宣教医師のルドルフ・B・トイスラーが買い取ったことが始まりだったりしますね。
神奈川:横浜居留地は寒村がハイカラな町に
開港した場所として一番有名な横浜。
もちろん大規模な居留地が作られました。
開港直後から、山下町を中心とする山下居留地が存在しています。
当時は、西洋建築や西洋人の生活様式がサッパリわかっていなかった頃だったので、建物は純日本家屋だったそうです。
西洋人たちは困惑したでしょうね。
最初に来たときは「とりあえずお寺なら安全だから、そこで話をしましょう」ということでお寺が大使館代わりになるのは納得できるでしょう。
しかし「今度は皆さんが住みやすい場所をちゃんと作りますから」って聞いてたのに、実際は「今までと変わらん(´・ω・`)」てなわけです。
その後たびたび拡張され、関内や山手のほうにも西洋風の住居や商社が広がり、元は寒村だった横浜がハイカラな町になるきっかけとなりました。
残念ながら、関東大震災などにより、当時の建物はほとんど残っていませんが……。
「ヨーロッパの掃き溜め」「破廉恥の見本」
しかし、全体の人数が増えればトラブルも比例します。
当時の駐日英国公使などの公人によると、「ヨーロッパの掃き溜め」「破廉恥の見本」と称するような状態だったといいます。
公人と商人の関係も決して良くなかったとか。
「よそでケンカすんなよ」とツッコミたいところですが、「地元じゃ鳴かず飛ばずだけど、東洋の新しい国でガッポリ儲けてやるぜ!」とやってきた、犯罪者ギリギリの商人も少なからずいたので、手癖足癖が良くない人も少なくなかったのです。
それだけに治安も危ぶまれ、警察機能をどうするかで、少々手間がかかっています。これは他の居留地でも同じだったようで。
【生麦事件】で一人だけ生き残ったイギリス人女性が逃げ戻ってきたのも、横浜居留地です。
そのため、横浜居留地の安全については西洋のほうでも敏感になっており、1875年までは英仏軍が駐屯しています。
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