西郷菊次郎

父の西郷隆盛と西郷菊次郎(右)/wikipediaより引用

幕末・維新

西郷の息子・西郷菊次郎は西南戦争で右足を失い台湾へ~68年の生涯

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西郷菊次郎
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壊疽を避けるための切断――それが一般的な処置

明治5年(1872年)。

12才になった菊次郎は、アメリカへ留学します。

しかしそんな学生生活も、2年6ヶ月が過ぎた明治7年(1874年)、帰国命令が出されて突如終わってしまいます。

財政緊縮のため、政府が留学生を呼び戻したのでした。

前途洋々たる将来が拓ける――。

そう思っていたであろう菊次郎に、更に突きつけられた厳しい現実は、征韓論で敗れ、薩摩に下野した父の姿でした。

そして運命の明治10年(1877年)がやってきます。

西郷が明治政府相手に蜂起した西南戦争です。

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この戦いに菊次郎も父と共に戦いますが、延岡・和田越えの戦闘にて、敢えなく右脚に被弾。

和田越決戦地/photo by shikabane taro wikipediaより引用

当時は、手足に銃弾を受け、弾丸を摘出するケースは少ないもの。壊疽を避けるための切断――それが一般的な処置でした。

かつての軍人に義手・義足が多かったのは、そのような原因があったのですね。

それも、ロクに麻酔処置も施されないまま切断するのですから、実に恐ろしい状況であり、菊次郎の場合もまたそうでした。

 

「おはんは白旗を掲げて降伏するとよか」

菊次郎は、右脚の膝から下を切断することになります。

まだ20才にも満たない青年にとって、その辛さたるや、想像に難くないでしょう。

右脚を失って移動もままならなくなり、西郷家の使用人・熊吉につきそわれて、なんとか俵野にまで移動できるという有様。

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結局、地元住民の家で療養することになります。

そんな彼のもとに、父の西郷が訪ねて来ました。

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既にこのとき、西郷は軍服を燃やし、愛犬を解き放っていました。

最期の時を覚悟していたのです。

「菊次郎、おはんは白旗を掲げて降伏するとよか。殺されることはなか」

「おいは、這いつくばってでも、父上についていきもす!」

菊次郎は父を追いかけようとしますが、右脚が切断された状態では、思う様に動けません。

這いずり回り、身動きできなくなったところを、熊吉に助けられました。

そして菊次郎は、叔父である西郷従道に降伏することになったのです。

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従通は兄の忘れ形見である甥の菊次郎を見ると、大いに喜びました。

「菊、菊! おはんだけでん、生きていてよかった! 熊吉、礼を言うでな」

そして明治10年(1877年)9月24日、西郷隆盛は自刃します。

享年49。
永遠に別れることとなりました。

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台湾に今も残る「西郷堤防」

菊次郎は、叔父・従通のはからいにより、アメリカ留学の経験を生かせる外務省に入りました。

入省後は、アメリカ公使館や本省でキャリアを重ねる日々。

日清戦争の結果を受け、台湾が日本領となった明治28年(1895年)、35才の菊次郎は台湾総督府へ赴任します。

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完成直後の台湾総督府庁舎/wikipediaより引用

そして、台北県支庁長や初代宜蘭(ぎらん)庁長を歴任しながら、4年半におよんだ宜蘭時代、菊次郎は統治に力を入れました。

農業や産業の奨励、土木工事等……様々な功績を残すのです。

菊次郎は、特に河川工事に力を入れました。

宜蘭市を流れる宜蘭川は、人々の生活を潤す水源ではあるのですが、毎年のように氾濫、市民生活をおびやかしていました。

そこで菊次郎は、巨費を投じて17ヶ月もかけ、宜蘭川に堤防を作ったのです。

お陰で宜蘭の市民は水害から守られるようになりました。

1.7キロにおよぶ宜蘭川堤防は、現在も「西郷堤防」と呼ばれ、傍らにはその業績を称える石碑も残されています。

さらに宜蘭市にある「宜蘭設治紀念館(→link)」には、菊次郎の写真はじめ、ゆかりの品が展示されています。

建物も、菊次郎の時代のものがそのまま残されているのだとか。

宜蘭設治紀念館/photo by Outlookxp wikipediaより引用

帰国後、菊次郎は明治37年(1904年)から明治44年(1911年)まで、京都市長をつとめました。

前述の通り、小説版『西郷どん』は、菊次郎が京都市長として就任する場面から始まっています。

父の死から30年以上の月日が経過。その記憶はなお鮮烈なものであったことが予想されます。

そして昭和3年(1928年)に死去。

享年68。

西郷の子の中では、二番目の長寿でした。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考】
『国史大辞典』
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編』(→amazon
ほか

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