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【横井小楠】
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鎖国か? 開国か? そんな二元論では駄目だ!
嘉永2年(1849年)、福井藩士・三寺三作は、横井の元で学問を習いました。
彼が横井小楠を絶賛したことにより、その名声は福井藩にも伝わります。
折しも当時の福井藩主は、高潔な名君・松平春嶽(松平慶永)です。
藩政を立て直すため春嶽は、橋本左内ら優秀な人材を身分に関係なく登用しておりました。
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福井藩の求めに応じて嘉永5年(1852年)、横井は『学校問答書』を、翌嘉永6年(1853年)には『文武一途之説』を書いて送りました。
そこには、こう記されておりました。
「相手の強弱ではなく、要求の当否で応対を決めるべきです」
外国船が来港する中、横井の論旨はスッキリとしていて、かつ正論でもありました。
外国人だから野蛮と決めつけずに、相手が礼儀正しいか、道理にかなっているかを判断、要求を受け入れるか決めるべきであり、鎖国か開国かという二元論ではならない。
そう説いているのです。
「異人はぶった切る!」
出身地、思想、そういったものを問わず、日本人の大半がそういきり立っていた時代。
ここまで冷静かつ儒教的な理想像を追及していた人物は、横井ぐらいのものでしょう。
その先進性において、この時点で彼に比肩し得たのは、佐久間象山クラスでないと無理だと思われます。
安政元年(1854年)、横井は兄の死によって家を継ぎましたが、肥後藩では彼を持て余していました。
代わりに救いの手を伸ばしたのが、松平春嶽です。
安政5年(1858年)、横井の思想に心服していた春嶽は、賓客であり師匠であるとして、横井を招いたのでした。
横井は早速、藩政改革に取り組みます。
絹・生糸の増産に取り組み、それを藩が長崎で販売。利益を農民に還元するという富国策は、絶大な効果と利益をあげました。
仁政を求める春嶽にとって、まさしく横井こそ、求め続けた人材であったのです。
横井は、その成果を『国是三論』にまとめています。
松平春嶽のブレーンとして
以降、横井小楠の浮沈は主君である春嶽と一致することになります。
「将軍継嗣問題」で一橋派の一角を担った春嶽は【安政の大獄】で処分を受けて、政治の舞台から姿を消します。
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春嶽の政治復帰は文久2年(1862年)、島津久光の挙兵上洛に端を発した政治改革からです。
幕府の政事総裁職に就任。横井はそのブレーンとして、江戸でその補佐にあたります。
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そして横井は幕政改革に乗り出し、時代錯誤な参勤交代制の事実上の廃止など、積極的に発言しました。
しかし横井の不幸は、春嶽ほど彼を理解できる人間がいなかったということです。
かつて失言で禁足処分を受けたほど舌鋒鋭く、かつ先進的である横井は、敵を作りやすい性質でもありました。
横井は何度か上洛を申し出ているのですが、春嶽はその身を案じて却下しています。
そしてこの年の暮れ、ついに横井は宴会の席で刺客に襲撃されてしまいます。
現代人ならば、これはもう襲った側が完全に悪い。
しかし、当時は武士の時代。
運悪く、横井は大小を持っておらず、犯行現場をいったん離れていました。
襲われた上に同行者を置いて逃げたことが不適切であるとして、熊本に呼び出された挙げ句、士籍剥奪処分を受けてしまうのです。
福井藩は弁護したものの、熊本藩では切腹を減じただけで、厳しい処分を下したのでした。
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