横井小楠

横井小楠/wikipediaより引用

幕末・維新

岩倉や春嶽に才能を見込まれながら暗殺された横井小楠とは一体何者?

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鎖国か? 開国か? そんな二元論では駄目だ!

嘉永2年(1849年)、福井藩士・三寺三作は、横井の元で学問を習いました。

彼が横井小楠を絶賛したことにより、その名声は福井藩にも伝わります。

折しも当時の福井藩主は、高潔な名君・松平春嶽(松平慶永)です。

藩政を立て直すため春嶽は、橋本左内ら優秀な人材を身分に関係なく登用しておりました。

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福井藩の求めに応じて嘉永5年(1852年)、横井は『学校問答書』を、翌嘉永6年(1853年)には『文武一途之説』を書いて送りました。

そこには、こう記されておりました。

「相手の強弱ではなく、要求の当否で応対を決めるべきです」

外国船が来港する中、横井の論旨はスッキリとしていて、かつ正論でもありました。

外国人だから野蛮と決めつけずに、相手が礼儀正しいか、道理にかなっているかを判断、要求を受け入れるか決めるべきであり、鎖国か開国かという二元論ではならない。

そう説いているのです。

「異人はぶった切る!」

出身地、思想、そういったものを問わず、日本人の大半がそういきり立っていた時代。

ここまで冷静かつ儒教的な理想像を追及していた人物は、横井ぐらいのものでしょう。

その先進性において、この時点で彼に比肩し得たのは、佐久間象山クラスでないと無理だと思われます。

安政元年(1854年)、横井は兄の死によって家を継ぎましたが、肥後藩では彼を持て余していました。

代わりに救いの手を伸ばしたのが、松平春嶽です。

安政5年(1858年)、横井の思想に心服していた春嶽は、賓客であり師匠であるとして、横井を招いたのでした。

横井は早速、藩政改革に取り組みます。

絹・生糸の増産に取り組み、それを藩が長崎で販売。利益を農民に還元するという富国策は、絶大な効果と利益をあげました。

仁政を求める春嶽にとって、まさしく横井こそ、求め続けた人材であったのです。

横井は、その成果を『国是三論』にまとめています。

 

松平春嶽のブレーンとして

以降、横井小楠の浮沈は主君である春嶽と一致することになります。

「将軍継嗣問題」で一橋派の一角を担った春嶽は【安政の大獄】で処分を受けて、政治の舞台から姿を消します。

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春嶽の政治復帰は文久2年(1862年)、島津久光の挙兵上洛に端を発した政治改革からです。

幕府の政事総裁職に就任。横井はそのブレーンとして、江戸でその補佐にあたります。

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そして横井は幕政改革に乗り出し、時代錯誤な参勤交代制の事実上の廃止など、積極的に発言しました。

しかし横井の不幸は、春嶽ほど彼を理解できる人間がいなかったということです。

かつて失言で禁足処分を受けたほど舌鋒鋭く、かつ先進的である横井は、敵を作りやすい性質でもありました。

横井は何度か上洛を申し出ているのですが、春嶽はその身を案じて却下しています。

そしてこの年の暮れ、ついに横井は宴会の席で刺客に襲撃されてしまいます。

現代人ならば、これはもう襲った側が完全に悪い。

しかし、当時は武士の時代。

運悪く、横井は大小を持っておらず、犯行現場をいったん離れていました。

襲われた上に同行者を置いて逃げたことが不適切であるとして、熊本に呼び出された挙げ句、士籍剥奪処分を受けてしまうのです。

福井藩は弁護したものの、熊本藩では切腹を減じただけで、厳しい処分を下したのでした。

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