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【佐賀の乱】
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一般人を集めた軍隊が氏族相手に通用するか?
当初は三条実美が「佐賀の七賢人」の一人である島義勇(しまよしたけ)に「ちょっとなだめてきて」と依頼した事もありました。
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しかし、島は佐賀へ向かう船の途中、佐賀士族を見下す役人の言動を目にして「先祖代々の土地を守るため、明治政府の軍を追い払わなければ!」と、愛国心ならぬ愛郷心を爆発。
共通の敵は、人を団結させる最も強力なキッカケになるわけで……。
中央にいた頃、江藤と不仲だった島は、この一件で協力して明治政府と軍に対抗することになってしまいます。
こうして佐賀の征韓党と憂国党は、協力して明治政府を相手に戦うことに……となりそうなものですけれども、実際にはそうではありません。
二つの派閥は別々に司令部が存在していたので、連合軍とはいえなかったのです。
たまたま同時期に明治政府への反感を持っただけで、その理由もポリシーも全く違いました。
一方、明治政府は強力な中央集権をモットーとしています。
それは軍事面でも同じで、徴兵令はその一環でした。
一般人を軍事的な意味での一人前にすることができれば、いつまでも士族に頼らなくて済む。士族の権益を保ては、いずれ旧佐幕派が勢力を伸ばし、政府を転覆しようと企みかねません。
封建制にもそれなりのメリットはありますが、明治政府としては何としても防ぎたい事態でした。
佐賀の乱は、そんなタイミングで起きたのです。
佐賀城での攻防で鎮圧軍の1/3が戦死!?
こうして、ちょっとしたトラブルから始まった佐賀の乱。
さっそく大久保の主導で鎮圧軍が差し向けられました。
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現地に近い熊本鎮台(基地のようなもの)では、佐賀出身者も多く混乱も起きましたが、やがて陸海両路で進軍開始。
鎮圧軍が佐賀城に入ると、まず江藤から使者がやってきました。
江藤としても、改めて政府の意思を確かめたかったのです。
しかし、ここで鎮圧軍のトップが「答える必要はない」と完全に拒絶してしまったことで、名実ともに戦闘が始まってしまいます。
籠城戦の場合、通常であれば城側が有利になるはずです。
実際、この反乱における鎮圧軍の死者のほとんどは、この佐賀城攻防戦でのものでした。ここにいた鎮圧軍の約1/3が戦死したそうです。
何がどうしてそうなった。
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