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【佐賀の乱】
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江藤が佐賀を離れて鹿児島へ!?
緒戦で鎮圧軍が敗走した後、大久保率いる後続が福岡までやってきました。
大久保は兵をいくつかに分け、福岡の多方面から佐賀へ進軍させました。途中であまり協力的でない地域にも、征伐に加わるよう説得させたりもしています。
一方、征韓党は長崎街道沿い、憂国党は筑後川沿いに兵を進めることで同意し、それぞれの鎮圧軍を迎撃しました。
このあたりから、両軍の物理的な優劣が際立ち始めます。
戦にはセオリーとも呼べる戦術がいくつかありますが、その中でも「小勢で大軍と真正面から戦ってはならない」というのは最たるものです。
数で対抗できないのなら、地の利や天候を利用したり、夜襲や奇策を用いたり、地元民に協力を頼むなど、別の工夫で補わなくてはなりません。
征韓党にも憂国党はそうした戦術面で劣り、敗退が続きます。
それぞれの党内での結束は固く、狭い道で一時的に善戦したり、「官兵殆ど敗れんとす」と評されるまでの戦いぶりも見せたのですが、ここで想定外の事態が起きます。
敗戦が続くのを見て、江藤が憂国党への相談なしに、征韓党を解散してしまったのです。
しかも江藤自身は鹿児島の西郷隆盛を頼って、佐賀からも離れてしまいました。
島は逮捕され、西郷や土佐を頼ろうとした江藤も捕まり
当然ながら憂国党は激怒しますが、そう簡単に降伏することもできません。さらに数日間戦って意地を見せました。
しかし、戦力差はどうにもならず、ついに2月28日になって降伏の使者を送ったものの、受け入れられません。
「文書の内容が失礼」という理由だったそうですが、ここまで鎮圧軍も相当の犠牲を出していますので、簡単には降伏を認めなかったのでしょう。
島はこれを知って討ち死にを覚悟したものの、弟たちが無理やり脱出させています。
その後は島津久光を頼ろうとして鹿児島に向かい、途中で捕まりました。
同じく鹿児島に向かった江藤らは先に到着し、西郷隆盛にも会ったようです。
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しかし、西郷は手荒な手段には反対でしたから、この時点では決起するつもりもありませんでした。
そのため江藤は土佐の征韓派を頼ろうとしましたが、手配書が回っており、やはり逮捕。
二人を含む佐賀軍の中心人物は裁判にかけられた後、判決が出た4月13日に斬首刑となりました。
江藤と島の首は晒されています。
ウィキペディアの江藤のページに写真があるので、苦手な方はご注意ください。ブラウザの環境によってはいきなり出てきますからね……。
最初から判決ありきと疑われる
裁判から処刑まで、あまりにも手順が早かったので、当時すでに「最初から判決が決まっていたのではないか」と言われていたようです。
それだけに江藤や島へ同情する庶民も多く「江藤の首塚に参ると眼病が治る」「訴訟がうまくいく」「災いが去る」などの迷信もささやかれました。
また、このとき日本にいたイギリス公使ハリー・パークスも「この判決は大きな不満を呼んでいる」と自国の外務大臣宛てに書き送っています。
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この動きは数十年残り、大正八年(1919年)になってから江藤や島を含めて特赦が行われ、地元民によって佐賀の乱戦没者の慰霊碑が建てられました。
また、佐賀の乱で生き残った征韓党や憂国党の残党の中には、西南戦争に参加した人もいたようです。
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この二つからも、佐賀の乱の心理的な影響は長く続いたことがわかりますね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「佐賀の乱」
不平士族の反乱
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
佐賀の乱/Wikipedia