堺事件

堺事件を描いたル・モンド・イリュストレ紙の挿絵(1868年)/wikipediaより引用

幕末・維新

堺事件で仏人に対しハラワタ全開~11名が切腹となった土佐藩士の意地

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ロッシュは朝廷からの招待も受け

艦長は「帰路で他の藩士に襲われることを懸念した」ともいわれています。

が、本人の日記では「このような処刑では、戒めではなく侍の英雄視につながってしまうから中止させた」としているそうです。

おそらくフランス側としては、フランス革命でのギロチンのような大量処刑をイメージしていたのではないでしょうか。

あれは罪の有無や大きさよりも、見せしめや復讐の意味が大でしたから、同事件の処理でも似たような効果を期待していたところ、実際に切腹を目にしてみて、これはそうではないことに気付いた、と。

その後、明治天皇からもロッシュへ謝罪と朝廷への招待を兼ねた使者が立ちました。

ロッシュは「犠牲者と死刑執行済みの人数が同じになったので、他の9名は助命してかまわない」と伝え、招待にも応じています。

彼の参内時には明治天皇が直接謝意を伝え、無事に国家間の問題としては解決しました。

もしかしたら、この経験が大津事件のときにも活かされたかもしれません。

堺事件のとき、明治天皇は16歳という多感な年齢でしたから、強く印象に残ったことでしょう。

 

土佐の入田へ流刑となる

この間、処刑を免れた9名は熊本藩や広島藩に預けられていました。

ロッシュの参内が済んだ後、彼らには土佐の入田(現・高知県四万十市入田付近)への流罪が決まります。

「国のために異人と戦ったのに」ということで当初は納得できなかったようですが、「朝廷からのお達しだし、そんなに長くならないようにするから」ということで、何とか流罪を了承させたのだとか。

流罪なのに自国内。しかも袴・帯刀・駕籠つき、かつ庄屋の宇賀佑之進預かりという扱いでした。

江戸時代の刑罰でいえば「所払い(元々住んでいたところから追放する)」くらいの感じでしょうか。

流罪というと「死刑よりちょっとマシ」「島流し」というイメージがありますが、実際にはそうとも限らず、いくつかの段階に分かれていました。

江島生島事件の絵島も流刑になっていますが、離島ではなく、高遠藩(現・長野県伊那市)での幽閉になっています。

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とはいえ、絵島は生活の大部分に厳しく制限を加えられていました。

堺事件の生き残りたちはおそらくそこまでの扱いにはなっていないと思われます。

「異性絡みのスキャンダルより、外国人をブッコロしてしまった罪のほうが軽いの?」

そう考えるとスッキリしませんが、その辺は当時の社会通念・事の経緯・感情といった面が主な理由です。

それを示す逸話として、こんなものもあります。

 

大坂では切腹した11人を「ご残念様」と呼び

事件の舞台となった堺、そして大坂では、「土佐の攘夷が大当たり」などとはやす歌がはやり、切腹した11人を「ご残念様」と呼んで、お墓に参詣する者が絶えなかったそうです。

また、助命された9人は「ご命運様」と呼ばれ、彼らの処刑後に遺体を入れられるはずだった大がめに入って、幸運にあやかろうとする者もいたとか。それもどうよ。

流罪になった9人は、明治時代に入ってから正式に恩赦が出て、自由の身になりました。

それまでに病死してしまった人もいたそうなので、全員とはいきませんでしたが。

日本が欧米と対等に付き合えるようになるまでには、堺事件のように日仏双方でも多大なる犠牲があったんですね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon
堺事件/wikipedia

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