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【三条実美と七卿落ち】
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華麗なる明治以降の経歴
翌明治元年(1868年)は、三条実美にとって輝かしい年の始まりでした。
正月9日、岩倉具視と並んで、新政府副総裁に任じられたのです。
幕末の動乱最初期から、尊王攘夷派公家として活動していた「お疲れ様でした」という人事ですね。この功績により、5千石も得ています。
実美の出世ルートは華やかです。
明治2年(1869年)には右大臣、明治4年(1871年)には太政大臣となります。
ただし、実美は岩倉具視と比較すると、政治力が不足していた感は否めません。
高い地位に就いていたものの、あまり活躍したようには思えないのです。
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征韓論で錯乱
そんな三条実美は、意外な形で政局に影響を与えます。
明治6年(1873年)、征韓論の政治闘争において両派に挟まれ、極度のストレスのためか、倒れてしまうのです。
アルコール中毒だったという話まであります。
ただ、普通に倒れたというよりも、大久保利通によれば「精神が錯乱した」とまで述べておりまして。
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政務も行うことができず、実美は辞表を提出。岩倉具視が後任となりました。
この岩倉が、西郷隆盛の朝鮮派遣案を一掃するのです。
結果、西郷一派は下野し、後の西南戦争へと繋がるのですから、歴史的意義は大きいものでした。
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しかし実美はその後も明治政府に残ります。
明治18年(1885年)の太政官制廃止まで、政府最高の地位におりました。
のみならず、太政官廃止で内大臣となり、明治22年(1889年)、黒田内閣のあとに2ヶ月間だけ首相、つまり総理大臣まで兼任しています。
ただし、このときの内閣は、あくまで黒田内閣の延長であり、歴代の総理大臣には含められておりません。暫定扱いなのです。
明治24年(1891年)に病死。
享年55。
公家出身者の大半が名誉職に就きましたが、彼と岩倉具視は高い地位を保ちました。
ただし、温和な性格であるためかストレスが溜まりやすく、それが征韓論の際にも出てしまったようです。
岩倉と比較するとちょっと目立たないのですが、それでも公家出身者の政治家としては屈指の人物と言えましょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『国史大辞典』
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『別冊歴史読本天璋院篤姫の生涯』(→amazon)
ほか