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【桜田門外の変】
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駕籠の外へ
丸裸になった駕籠。
襲撃者たちは次から次へと駕籠に刀を突き刺します。
髷をつかまれた井伊は、ついに駕籠の外へ引きずり出されました。
「おのれッ……」
それでも雪の上を這いずって、その場を逃れようとする井伊。
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そのときでした。
「キィエエエエエエエーッ!」
薩摩は薬丸自顕流特有の「猿叫」が響き渡ります。
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刹那、井伊の首は、雪の上を転がっておりました。
かくして、桜田門外の変――成就。
井伊の首を取った男、それは薩摩藩士・有村次左衛門でした。
「精忠組」の計画
遡ること2年前の安政5年(1858年)。
薩摩藩は煮え立つような状況でした。
黒船来航の後、薩摩藩内では水戸藩、長州藩と同じく、「日本をこのままにしておいてはいけない!」と立ち上がる若者が出てきています。
大久保利通をリーダーとしてまとまった彼らは「精忠組」と呼ばれました。
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若者ゆえに思いは熱い。
熱情は過激さへと向かいやすく、ただ憂国の志を語っているだけでは済まなくなってしまいます。
彼らの怒りの矛先は「安政の大獄」を起こした井伊直弼に向かいました。
むろん殺すつもりでした。
弾圧よりも懐柔
「井伊大老の暗殺計画とな?」
暴走を始めた精忠組の「井伊暗殺計画」は、幸か不幸か藩の上層部に届きました。
計画の骨子はこうです。
志を同じくする水戸藩士たちと手を組み、井伊直弼を殺害。その首を掲げながら3,000の兵を率いて上洛、天皇の協力を得て幕府に政治改革を迫る――というものです。
なんと危うく杜撰な目論見なのか。
このまま薩摩の若者たちが暴走しては藩にも害が及んでしまう――と、ここで絶妙な手を繰り出したのが島津久光です。
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若き藩主・島津忠義の父であり「国父様」と呼ばれていた実力者。
お由羅騒動の由羅の息子であり、共に島津斉興を父とする島津斉彬の弟でもありますね。
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久光が絶妙だったのは、単純に弾圧しなかったことでしょう。
彼は若き精忠組の計画、行動に理解を示しつつ、融和策でもってコトに臨みました。
「その志は理解する。いつか藩をあげて、お前たちとともに行動をすることも約束する。ただ、最善のタイミングをはかる必要がある。それまで決して暴走してはならない。慌てるなよ」
と、猛犬に首輪を付けるように、巧みに精忠組をなだめました。
そして、藩の外に出ていた者を薩摩まで呼び返したのです。井伊を斬ると熱くなっていた精忠組も冷静になり、襲撃計画をやめて次々と薩摩に戻りました。
しかし、帰国を良しとしなかった者もおりました。
有村雄助・次左衛門兄弟です。
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