こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【税所敦子】
をクリックお願いします。
【仏にもまさる心と知らずして】
訳を付けるとすればこんな感じでしょうか。
↓
【仏にも まさる心と 知らずして 鬼婆などと 人はいうなり】
【訳】仏様にも勝るほど優しい心であるのに、それを知らずに、人は鬼婆と言うのですよ
才知ひとつで意味をひっくり返した敦子に、姑は呆然としました。
そして、しばらくその句を見ていたあと、感動して泣き出してしまったのです。
こうした才能にあふれた敦子を、周囲が放って置くわけもありませんでした。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
近衛家に出仕 さらには皇后の侍読に
敦子の才能は薩摩藩内でも話題になり、藩の人々に歌を教えるようになりました。
ついには島津斉彬の目にまでとまり、その子である哲丸の守役に抜擢されます。
幕末薩摩の名君・島津斉彬~西郷らを見い出した“幕末の四賢侯”50年の生涯とは
続きを見る
ところが、です。
折り悪く、斉彬も哲丸も急逝してしまいます。
敦子は失意のあまり、一時は殉死すら考えたほどです。
しかし、これほどの才人が再び放って置かれるはずもなく、文久3年(1863年)、今度は島津久光の養女・貞姫が近衛忠煕の子・忠房に嫁ぐことになると、姫付きの老女として抜擢されるのです。
篤姫を養女にした近衛忠煕(ただひろ)幕末のエリート貴族91年の生涯とは?
続きを見る
近衛忠煕といえば、篤姫の養父となったことでも知られる人物で、薩摩藩とは縁が深い人物です。
幕末に薩摩から将軍家へ嫁いだ篤姫ってどんな人?47年の生涯まとめ
続きを見る
島津久光は、西郷隆盛と仲の悪い国父として知られますね。
西郷の敵とされる島津久光はむしろ名君~薩摩を操舵した生涯71年
続きを見る
時は進み明治6年(1873年)、近衛忠房が世を去りました。敦子もまた静かな余生を送るはずでした。
が、これほどの才女となると、まだまだ世間が放っておいてはくれません。
敦子は明治天皇の皇后である昭憲皇太后の侍読(家庭教師)に抜擢されるのです。
昭憲皇太后のお召書~和服だった明治の日本女性に洋服を薦めた功績
続きを見る
凄まじい出世ですね。
鬼婆の目に涙を浮かばせるだけあります。
50才を超えてから英語と仏語をマスター
明治8年(1875)、敦子は宮内省に出仕し、権掌侍楓内侍となりました。
明治の皇后ともなれば、従来通り和歌を詠んでいればよいというものでもありません。
敦子に期待されたのは、後宮の女性たちが明治のレディらしく振る舞えるよう、風習を刷新することでした。
もう50才を越えていた敦子でしたが、そのために新たな学問と出会いました。
英語とフランス語です。
西洋の貴族と意思疎通をするために、敦子は懸命に学び、ついには使いこなせるようにまでなりました。
彼女の高い言語センスと努力、そして何よりも柔軟性がうかがえます。
スピードラーニングもない時代に凄まじい努力を要したか、あるいは常人離れした言語センスがあったか。まぁ、両方なんでしょうね。
敦子の人生は、まるで風にしなう柳の枝のようです。
夫や姑の仕打ちにもしなやかに耐え抜き、明治になってからは外国語を学ぶ。ヘタすりゃ、どこかでポキリと折れていてもおかしくない、そんな生き方です。
朝ドラの主役にするにはキャラが大人しい気もしますが、いずれ、ドコかの映像作品でお目にかかりたい一人。
激動の世を生き抜いた敦子は、才女の鑑と讃えられ、明治32年(1899年)に世を去るのでした。
享年76。
あわせて読みたい関連記事
紫式部は道長とどんな関係を築いていた?日記から見る素顔と生涯とは
続きを見る
承久の乱~なぜ後鳥羽上皇は義時へ戦を仕掛けたのか 鎌倉幕府を舐めていた?
続きを見る
幕末薩摩の名君・島津斉彬~西郷らを見い出した“幕末の四賢侯”50年の生涯とは
続きを見る
篤姫を養女にした近衛忠煕(ただひろ)幕末のエリート貴族91年の生涯とは?
続きを見る
幕末に薩摩から将軍家へ嫁いだ篤姫ってどんな人?47年の生涯まとめ
続きを見る
西郷の敵とされる島津久光はむしろ名君~薩摩を操舵した生涯71年
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
辻ミチ子『女たちの幕末京都 (中公新書)』(→amazon)