税所敦子

税所敦子/wikipediaより引用

幕末・維新

明治の紫式部と呼ばれた税所敦子が地味に凄い~幕末薩摩からの飛翔に注目

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【仏にもまさる心と知らずして】

訳を付けるとすればこんな感じでしょうか。

【仏にも まさる心と 知らずして 鬼婆などと 人はいうなり】

【訳】仏様にも勝るほど優しい心であるのに、それを知らずに、人は鬼婆と言うのですよ

才知ひとつで意味をひっくり返した敦子に、姑は呆然としました。

そして、しばらくその句を見ていたあと、感動して泣き出してしまったのです。

こうした才能にあふれた敦子を、周囲が放って置くわけもありませんでした。

 

近衛家に出仕 さらには皇后の侍読に

敦子の才能は薩摩藩内でも話題になり、藩の人々に歌を教えるようになりました。

ついには島津斉彬の目にまでとまり、その子である哲丸の守役に抜擢されます。

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ところが、です。

折り悪く、斉彬も哲丸も急逝してしまいます。

敦子は失意のあまり、一時は殉死すら考えたほどです。

しかし、これほどの才人が再び放って置かれるはずもなく、文久3年(1863年)、今度は島津久光の養女・貞姫が近衛忠煕の子・忠房に嫁ぐことになると、姫付きの老女として抜擢されるのです。

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近衛忠煕といえば、篤姫の養父となったことでも知られる人物で、薩摩藩とは縁が深い人物です。

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島津久光は、西郷隆盛と仲の悪い国父として知られますね。

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時は進み明治6年(1873年)、近衛忠房が世を去りました。敦子もまた静かな余生を送るはずでした。

が、これほどの才女となると、まだまだ世間が放っておいてはくれません。

敦子は明治天皇皇后である昭憲皇太后の侍読(家庭教師)に抜擢されるのです。

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凄まじい出世ですね。

鬼婆の目に涙を浮かばせるだけあります。

 

50才を超えてから英語と仏語をマスター

明治8年(1875)、敦子は宮内省に出仕し、権掌侍楓内侍となりました。

明治の皇后ともなれば、従来通り和歌を詠んでいればよいというものでもありません。

敦子に期待されたのは、後宮の女性たちが明治のレディらしく振る舞えるよう、風習を刷新することでした。

もう50才を越えていた敦子でしたが、そのために新たな学問と出会いました。

英語とフランス語です。

西洋の貴族と意思疎通をするために、敦子は懸命に学び、ついには使いこなせるようにまでなりました。

彼女の高い言語センスと努力、そして何よりも柔軟性がうかがえます。

スピードラーニングもない時代に凄まじい努力を要したか、あるいは常人離れした言語センスがあったか。まぁ、両方なんでしょうね。

敦子の人生は、まるで風にしなう柳の枝のようです。

夫や姑の仕打ちにもしなやかに耐え抜き、明治になってからは外国語を学ぶ。ヘタすりゃ、どこかでポキリと折れていてもおかしくない、そんな生き方です。

朝ドラの主役にするにはキャラが大人しい気もしますが、いずれ、ドコかの映像作品でお目にかかりたい一人。

激動の世を生き抜いた敦子は、才女の鑑と讃えられ、明治32年(1899年)に世を去るのでした。

享年76。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
辻ミチ子『女たちの幕末京都 (中公新書)』(→amazon

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