2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』において、青木崇高さんが演じると発表された栗本鋤雲。
横須賀市平和中央公園には、栗本鋤雲と小栗忠順は銅像として並んでいます。ドラマでもこの二人が並ぶ場面は多いことでしょう。
この役を演じる青木さんは、キャストの中でも大変な苦労があるかと思われます。
それというのも、フランス語を習得する必要があるのです。
アメリカとの開国後、幕府は押し寄せる西洋列強の前で外交方針を決めねばなりませんでした。
オランダはつきあいは長いとはいえ小さい。ロシアとイギリスはあまりに危険。アメリカは南北戦争が勃発してしまう。
そんな幕府にフランスという選択肢を示したのが、この栗本でした。左遷されて蝦夷地にいた彼は、フランス人宣教師であるメルメ・カションと交流があったのです。
キャラクター性も、青木さんが演じるに足るだけの個性に溢れています。
彼は『べらぼう』でも印象的だった鬼平こと長谷川平蔵宣以の親族にあたります。
つまり、こういうことになります。
栗本鋤雲の母方の祖父の兄、つまり大伯父が長谷川平蔵宣以。
あるいは長谷川平蔵宣以の姪が、栗本鋤雲の母ということになります。
あの『鬼平犯科帳』シリーズの主役になるほどの個性的な逸話が残された一因として、この栗本鋤雲の筆もあります。
彼の随筆『匏庵(ほうあん)遺稿』に、先祖の一人の面白い話として、長谷川平蔵宣以について書き残されていたのでした。
栗本鋤雲はこの型破りな先祖を彷彿とさせる豪傑といえます。
文武両道なのに反骨心が強すぎて、昌平黌を追い出されてしまうわ、蝦夷地に左遷されるわ。
幕閣に復帰すれば、医師という身分から大抜擢され、怒涛の出世を遂げ、外交の最前線に立つ。
そして盟友である小栗忠順とともに、幕府の近代化を勢いよく進めてゆきます。
これほどまでの人物でありながら、青木さんは演じるまで知らなかったとのこと。
それはなぜか? 忘れられてしまったのです。
明治になってから、鋤雲は出世や名声を捨てました。かわって彼が選んだのは、悲劇的な最期を遂げた小栗との約束を守るような生き方でした。
小栗と鋤雲は、もう幕府は持たないことくらい、十分わかっていました。
それでも新聞社を興し、世論を動かし、後進の若者を育てていこうと語り合っていたのです。
明治の鋤雲は、そんな友との誓いを守るジャーナリストとして生き抜きました。
だからこそか、彼にはゆるせない人物がいました。
『逆賊の幕臣』で小栗のライバルとして描かれる勝海舟です。
旧幕臣同士の会合があれば、容赦なく勝に雷を落とす。アンチ勝海舟筆頭として、筆をふるい、勝批判を繰り返しました。
そんな彼の熱い生涯をふりかえってみましょう。

栗本鋤雲/wikipediaより引用
昌平黌から追い出された豪傑肌・栗本鋤雲
文政5年(1822年)、幕府の典医・喜多村槐園(きたむら かいえん)に三男が生まれました。
幕末に活躍した人物としては年長の部類に入る栗本鋤雲その人。
幼き頃より頭脳明晰であり、天保14年 (1843年)、幕府の最高教育機関である昌平坂学問所(昌平黌・しょうへいこう)に入学すると、あまりの秀才ぶりに周囲からこう呼ばれます。
「お怪け喜多村(おばけきたむら)」
背が高く大柄、見た目はスマートなタイプというよりは、まるで侠客か豪傑のよう。頭が良いだけでなく迫力もある。
江戸時代は髭を伸ばすことはあまり一般的ではありませんでしたが、栗本は例外です。
フランス渡航時に撮影されたその顔は、もみあげと髭がつながり、歌川国芳が描いた『水滸伝』の魯智深や、『三国志』の張飛を彷彿とさせるいかつい風貌をしています。
青木崇高さんは大河ドラマにおいて弁慶や木曾義仲を演じております。豪傑肌の鋤雲にも実にふさわしいキャスティングです。
彼のあだ名は「おばけ」でした。背が高く、見るからに豪快、醸し出す雰囲気も只者ではなく、成績優秀。まさしく化け物級の人物でした。
かような鋤雲ですから、杓子定規な規範には収まるわけもありません。
過激な言動と批判が過ぎて昌平坂学問所を退学。
昌平坂学問所のすぐ側に私塾を開き、門下生十数名と貧乏暮らしを送ることになると、おかずどころか米も味噌も買う金がなく、塩で煮た大根と塩辛ばかりで過ごす羽目に……。
嘉永元年(1848年)、27歳で貧乏暮らしは終わりを告げます。
奥詰医師・栗本家の養子として家督を継いだのです。
継ぐ家のない三男としては実にありがたいこと。これで生活は安定したものの、刺激がどうにも足りません。豪傑肌の鋤雲としては、ちょっと物足りない。
それに、彼の医者という身分も中途半端ではあるのです。
武士ではなく、身分としてはやや低いのです。同時代では長州藩の久坂玄瑞も医者となります。この身分差を覆すためにも、勤勉努力とアピール力、そして実力が必須とされます。
ましてやこの激動の時代、なんとしても海軍に関わりたいと身分秩序を超えた行動をしたくなっても、致し方ないことではあったのでしょう。
そんなとき、長崎の海軍伝習所から軍艦「観光丸」が江戸までやって来ました。

観光丸/wikipediaより引用
「観光丸」はオランダ国王・ウィルヘルム2世から寄贈されたスームビング号が前身であり、伝習所が改称していたのです。
ここに第一回伝習生である矢田堀景蔵が乗り込んでいました。
彼は鋤雲の私塾出身。そんな縁もあり、鋤雲は早速観光丸に乗り込みました。
しかし、これに対し御匙法印(おさじほういん)・岡櫟仙院(おか れきせんいん)が激怒します。
将軍の主治医であり、幕府のトップ医師とされる人物。
「オランダの技術を褒め称えるなぞ、けしからん!」
そんな怒りに触れて鋤雲は蟄居を命じられてしまいます。
函館で花開く才智
世間にはそういう誤解がありがちですが、実際はそんなことありません。
幕府は、ペリー来航前から、海外への対処に当たっていました。
何も知らないのはむしろ政権奪取をした志士たち側で「攘夷」と叫ぶだけで対外政策の具体的なアイデアはありません。
まぁ当たり前の話です。政権を握っているのが江戸幕府なのですから、多くの情報を精査する準備はしていました。
当時の幕臣たちが危険視していたのは、実のところアメリカではありません。
ハリスは「イギリスよりも我々相手に開国したことはラッキーでしたよ」と恩着せがましいスピーチをしましたが、あながち誇張とも言い切れないのです。
当時のアメリカにとって最大の狙いは、捕鯨船の安全な航行と、東アジアの資源確保でした。
関税はじめ条件も、清をさんざん痛めつけてきた前科あるイギリスほどあくどくもない。
幕府からの使節団は友好的に大歓迎をしましたし、榎本武揚ら留学生受け入れも表明していました。
しかし、使節団が帰国した後南北戦争が勃発してしまい、日本とは距離が空いてしまいます。
幕府にとって、危険視していたのはアメリカではなく、むしろロシアとイギリスです。
ロシアは江戸時代以降で、日本に接触してきた西洋列強としては最も早い。そうはいっても目的は植民地化ではなく、貿易のための航路確保ではありました。
田沼意次と松平定信以降、幕府はなんとかしてロシアと交渉しようとするものの、『べらぼう』で描かれたように頓挫してしまいました。
日本側が手をこまねいているうちに、ロシアという脅威は大きくなるばかりです。アメリカから帰国した小栗忠順は、対馬藩に突如現れたロシア戦艦ポサドニック号相手の交渉に苦慮していました。
小栗は「どうにかなろう。この一言が幕府を滅ぼしたのだ」と述懐しています。彼らは上の世代が後回しにしたツケと向き合う羽目に陥り、もう手遅れだと噛み締めていたのでしょう。
すると、この対馬にイギリス艦が出現したことで、ロシアは引っ込んでゆきましたが、幕府にとっては頭痛の種が増えただけでした。
このイギリスの危険性は、フェートン号事件と阿片戦争の時点で幕府はよくわかっています。
対馬におけるポサドニック号の一件は、前門の狼を、後門の虎の威を借りてなんとか解決したようなもの。この事件の対応にあたった小栗忠順はそのことを痛感させられたでした。
このときのロシアとイギリスは、世界各地で火花を散らしていました。チェスにたとえた「グレートゲーム」と呼ばれる世界規模の覇権争いが、日本にまで及んできたのです。そうなるとロシアは開港と貿易権益だけを狙っているわけではない。イギリスの牽制を狙い出しています。
そのことがあらわになった舞台が対馬です。そして北にも、長年ロシアが手を伸ばしてきた地域があります。
それは蝦夷地と樺太です。対ロシア政策の最前線であると同時に、幕臣左遷地の定番となっておりました。
才能はあるけれど、トラブルメーカーでもある、栗本鋤雲にとってはうってつけの土地です。
いや、むしろ彼だからこそ活躍できたともいえる。
江戸時代、栄転あるいは左遷をされて地方に派遣されると、その地であっけなく亡くなる官僚も少なくないものでした。
土地が合わないのでしょう。ましてや蝦夷地となれば、寒冷さゆえに困難を伴います。
それでも鋤雲は耐え抜くどころか、意気軒高です。
なんと、樺太探検までこなしたのですから、驚異的な健康体。樺太ではアイヌからイオマンテに誘われた鋤雲は、厳粛な祭典だと理解して正装で臨み、その様を漢詩で高らかに詠みあげたのでした。
これが鋤雲の魅力のひとつでもあります。フランス人のメルメ・カションに対しても、アイヌに対しても、差別心よりも好奇心で接することができるのです。
なんともサッパリした人柄を発揮できる土地が、この蝦夷地でした。
かくして安政5年(1858年)、鋤雲は蝦夷地在住を命じられ、函館へ向かいました。

伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の蝦夷地/wikipediaより引用
医者ではなく、箱館奉行配下で在住諸士をまとめる頭取という地位です。
鋤雲のいた函館は、外国に対する北の玄関口となっておりました。
ロシア人向け正教会やバーニャ(ロシア式サウナ)があるかと思えば、新島襄のような人物が密航出発点として選ぶ場所でもあった。
そんな鋤雲の元に、フランス人宣教師メルメ・カションが訪ねてきます。
彼はフランス駐日公使ロッシュの通訳を務めており、語学を学びたがっていた。メルメ・カションが日本語を習い、鋤雲がフランス語を習う――そんな関係が築かれたのです。

メルメ・カション(左)と関係の深かった栗本鋤雲/wikipediaより引用
語学のみならず、メルメ・カションは技術についても鋤雲に教えてくれました。
好奇心旺盛な鋤雲は、それを函館で生かしたいと願い、実行に移します。
ざっとリスト化しますと……。
・函館医学所の設立
・江戸時代は「花柳病」と呼ばれ必要悪とされていた梅毒予防に取り組む
・七重村薬草園経営
・久根別川から函館まで船運開通
・食用牛、綿羊の飼育
・養蚕
・紡績業の開発
いかがでしょう。単なる破天荒にとどまらず、先を見る力を持っていることがわかります。
医者なのに、なぜ?
これは鋤雲が優れていただけでなく、東洋医学の思想についても考えた方がよいかもしれません。
天下国家を診察してこそ、上医である
なぜ医者が天下国家を論じるのか?
不思議に思われる方も多いかと思います。
伝説的な名医・張仲景にはこんな逸話があります。
どんな名医も皇帝の病を治せず、張仲景が呼ばれた。
彼の診察で回復した皇帝が都にとどまるように頼むと、彼は断った。
「陛下のご病気は治せますが、国の病は治せませぬがゆえ……」
名医とは、国家や政治の腐敗をも見抜き、その治療法を見出せるものである――そんな考え方が、東洋の伝統医術にはあります。
栗本のように、医者が天下国家を憂いたとしても、それは至極まっとうなことなのです。
東洋の医者には、以下のようなことを言い出す人が出てきます。
上医:病気にかからないように予防します
中医:今にも発症しそうな状態で、それ以上悪化しないように治療します
下医:病気になってから治療します
上医:国家を治療します
中医:人を治療します
下医:病を治療します
「やるのであれば上医を目指す。国を治療する医者になるのだ。政治家を目指すぞ!」
こうした考えには、東洋の伝統的な思想がありました。
神羅万象、万物が天地の間にあるからには、国家そのものが病となれば、その中にいる人間までも病んでしまうということ。
栗本鋤雲とは、まさしく東洋の上医でした。
日仏をつなぐ幕臣として
幕末は、幕府内でも才能重視で人材登用がなされた時代。
鋤雲の才能は認められ、箱館奉行組頭に任じられ、医籍から士籍にまで出世を遂げました。
その任として樺太や南千島の探検を命じられ、さらには文久3年(1863年)、江戸に呼び元されます。
ここで鋤雲が命じられる予定だった役職は「新徴組」の頭領でした。佐々木只三郎により清河八郎が暗殺されてしまったため、鋤雲を頭領にする案が浮上していたのです。

清河八郎/wikipediaより引用
しかし、京都では浪士隊改新選組が結成され、話はお流れに。
流れたとはいえそんな話があったことから、鋤雲の剛腕も伺えます。
結局、かつては彼を追い出した昌平坂学問所に、頭取として復帰。目付とされ、横浜鎖港談判員として立ち会うことになりました。
ここで鋤雲は意外な人物との再会を果たします。
ロッシュとメルメ・カションです。
この出会いもあって幕府はフランスとの距離を縮めてゆきます。これも鋤雲ならではの深い洞察と意見があっての外交方針転換でしょう。
様々な諸条件をふまえると、協力を依頼できそうな国はないのではないか。アメリカは南北戦争で途絶。ロシアとイギリスは危険すぎて論外。そう幕府は頭を抱えていました。
そんなとき、フランスという選択肢が浮上してきたのです。
フランスはカトリック教国です。幕府はキリシタン禁制以来、カトリックを厳禁してきました。このことを踏まえれば、フランスは同盟相手としては真っ先に脱落してもおかしくはありません。
しかし鋤雲はその布教に来た危険人物であるメルメ・カションと交流し、この男はむしろ不真面目な生臭坊主であると理解できてもいます。
フランスは布教よりも切実な目的があって日本に接触してきていると、彼には理解できたのです。
フランス喫緊の課題は、絹の確保でした。
絹に魅了されていたフランス国民は、もはやそれなしに貴婦人のドレスを作るなど、考えられなくなっています。ところが蚕に伝染病が大流行し、壊滅的な打撃を受けていたのです。
清から輸入しようにも、制限があるうえに、イギリスが目を光らせていてどうにもうまくいかない。そんな苦境の中、日本から絹を取り入れるという選択肢が浮上してきます。
かつて日本の絹は中国産に劣っていたものの、江戸時代という長い泰平のなか、品種改良は進んでいます。日本産の絹も実に魅力的なものとして存在しました。
絹を優先的に供給することと引き換えに、協力体制を整える。まさしく日本とフランス、双方にとってメリットのある関係となります。
かくして、日仏共同プロジェクトは、急速に進められてゆきます。
・横須賀製鉄所設立(後に横須賀造船所へ)
・軍事顧問招聘
・横浜フランス語学校開校

関東大震災直後の横須賀海軍工廠/wikipediaより引用
幕府でも屈指の海外通である栗本鋤雲です。
製鉄所御用掛にはじまり、外国奉行、勘定奉行、箱館奉行なども務めるほどに重用されていきます。
お気づきでしょうか?
栗本鋤雲は、薩摩や長州の志士たちよりもずっと早く、西洋の技術と、さらに連携の道を見出していたのです。
慶応元年(1865年)の兵庫開港問題では、外国奉行である栗林鋤雲がイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国と渡り合っています。
しかも、幕閣の中心として話をまとめあげ、その評価は高まるばかりでした。
そんな彼には幼馴染でもある盟友がおりました。五歳下の小栗忠順です。彼にとって栗本鋤雲は、仰ぎ見るような頼りになる兄貴分ともいえます。
そんな小栗はよくこう漏らしていました。
「金が、足りない……」
そんなぼやきをさんざん耳にしてきて、実際その通りだと鋤雲は理解していました。
横須賀製鉄所建設前にも金がない、幕府はもう持たないのではないか。そう腹を割って話せる弟のような小栗に対し、彼はそう漏らしました。
すると小栗はキッパリと言います。
「金がないのはわかっちゃいる。でもここで金を使わなくなって、それがどこに流れるかわかったものではないだろう。ここでやり遂げれば、土蔵付きの売り家を残す栄誉は得られる」
土蔵とは、火災が多い江戸での暮らしに欠かせぬもので、ここに貴重品や財産をしまうことで守ろうとしていました。現代の金庫のようなものです。
幕府がまるで火災に見舞われるようなことがあろうと、残すものを作り上げたい。そんな小栗の高い志がそこにはあります。名誉よりも実利をとる。それが小栗の高潔さでした。
幕府の未来はないだろう。しかし、日本の未来は限りがない――そんな思いを語っていた友の姿を、鋤雲は忘れることはありませんでした。
関東が幕府とフランスの協力で急速に近代化を進めていく一方、西日本では別の動きが起きておりました。
尊王攘夷を掲げた薩長土の過激藩士たちは、京都中心に政争を繰り広げていました。
しかしこれをやりすぎた結果、薩摩藩は生麦事件を契機とした薩英戦争。長州藩は下関戦争により、反撃を受けてしまいます。
こうした中で、イギリスは薩摩と長州に目をつけておりました。
かれらからすれば、フランスと幕府は許し難い。フランスが絹貿易を優先的に進めていることは気に入らない。幕府がイギリスの介入を警戒しつつ、近代化を急速に進めることも懸念材料です。
日本が近代化してしまっては、東洋を搾取するというイギリスのシナリオは成立しなくなるかもしれません。
ここは幕府を潰し、イギリスの言うことを聞き入れる傀儡政権を打ち立てることこそが上策ではないか?
そう考えるイギリスにとって、薩長の若き志士たちは御し易い相手でした。老成した幕臣よりもずっと聞き分けがよいのです。
外交情報の蓄積ある幕臣はイギリスの危険性をふまえて警戒するものの、若い志士はそれができません。
かくしてイギリスの思惑のもと、薩長は武器を買い揃え、倒幕へと動き出します。
こうしてみてくると、不可解なものが見えてくるのではないでしょうか。
2015年大河ドラマ『花燃ゆ』放送の前年である2014年、ドラマ後半の舞台となる富岡製糸場が世界遺産登録されました。
2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が登録されています。
しかし、これには横須賀製鉄所はじめ、幕府が手がけた関東にある施設は登録されていない。
一方で製鉄・製鋼、造船、石炭産業とは関係のない松下村塾は登録されています。
この世界遺産登録を見ても、日本の明治維新認識は歪であることがみえてきます。関東での幕府の動きはなかったこととされ、幕臣はまとめて無能集団とされてしまっています。
『逆賊の幕臣』のキャストが発表されるたびに、誰なのかという戸惑いが広がっているようです。それはあったはずの功績が消されているからこそ生じた奇妙な現象といえます。
外交の要として、急遽パリに派遣される
慶応2年(1866年)正月。
将軍の弟・徳川昭武がパリ万博へ参加するため、欧州へと派遣されました。
渋沢栄一も随行した幕府からの遣欧使節団ですね。

徳川慶喜の弟・徳川昭武もいた徳川使節団/wikipediaより引用
その目的は日仏友好も兼ねた昭武の留学でもあったのですが、その途中、フランスからの借款が中止になるというトラブルが発生してしまいます。
原因は、幕府に対して私怨を抱き、薩摩とも繋がりのあったモンブラン伯でした。
モンブランの言うことを受けた現地の新聞社が「幕府使節団は怪しい」と連日バッシングを続けていた結果です。
こうして、むしろ悪化してしまった日仏関係修復のため、派遣されたのが栗本鋤雲でした。
鋤雲は後には引けぬ気に満ちていたことでしょう。この借款を頼りに、小栗がどれだけ近代化計画を立てていたのか、鋤雲は誰よりもよく理解していました。
鋤雲は慶応3年(1867年)6月、横浜港を出発。昭武一行がヨーロッパ各地を見て回る間、鋤雲たちはパリで外交交渉に努めることとなります。
急遽決まったパリでの生活で、鋤雲はさまざまな技術に感銘を受けました。
蛇口をひねれば出てくる水。
法の下で人々を平等に裁く裁判所。
サーベルを身につけ、交通を整理し、人々を見回るポリス。
日本に近代警察のシステムを持ち込んだといえば初代警視総監・川路利良が有名です。

川路利良/wikipediaより引用
しかし、川路より先にポリスの有効性に目をつけ、日本に持ち込もうとしていたのが鋤雲でした。
滞仏中には、メルメ・カションの紹介で、痔の手術も受けています。鋤雲は本人が医者だけに、西洋医術の利点を知っていたのです。
麻酔を吸い込んだ鋤雲は、気持ちよく酔ったような気持ちになったと回想。鋤雲ならではの観察眼で、フランスとドイツ医学の優位性を見出していました。
明治以降、日本の医学界がフランス式とドイツ式で別れ、揉めたことを踏まえますと、先見の明を感じさせます。
そんなフランス滞在中、驚天動地の報せが届きます。
江戸幕府が倒壊してしまったのです。
反骨のジャーナリストとして明治を生きる
慶応4年(1868年)5月、帰国した鋤雲は隠棲しました。
才智あふれる鋤雲は新政府からの出仕を依頼されましたが、これを拒否。
栗本鋤雲は元幕臣です。
新政府に仕えることは「弐臣(じしん)」になることを意味する。二君に仕えた家臣のことで、東洋の道徳規範では恥ずべきものとされました。
この規範は江戸っ子改東京府民にも沁み込んでおり、明治政府に出仕したら野菜や魚を売ってもらえなくなることも続出しておりました。
新たな日々を模索する彼の胸には、こんな思いが去来したことでしょう。
なぜ、小栗忠順が己の隣にいないのかーー。
鳥羽・伏見の戦いで惨敗し、榎本武揚の軍艦を盗み取るようにして江戸に戻ってきた徳川慶喜。
その袖を握り締め、小栗忠順は必勝の迎撃策を訴えます。しかし慶喜はその袖を払い、抗戦を拒んだのです。
なお、のちにこの迎撃策を目にした新政府のものたちは、これが実行されていたら首がなかったのは自分たちであっただろうと冷や汗をかいたとされます。
小栗はやむなく自領に隠棲していたところ、理不尽な冤罪により斬首されてしまいました。幕府が倒れたあとは出仕せず、後進の育成をしたいと語っていたその願いは無惨にも断たれてしまったのです。
鋤雲の胸には、怒りの炎も燃えたぎっていたことでしょう。
勝海舟は、慶喜の無血開城を実現に移しました。
これが鋤雲からすれば憎い。小栗の策実現に動くどころか、武士らしからみっともない降伏をまとめた勝海舟だけは許せない――そんな憎しみも滾っていたのです。
なお、この無血開城交渉は、実際には勝よりも他の「幕末三舟」である山岡鉄舟と高橋泥舟の方が貢献していたとされます。
それでも勝に怒りが向けられるのは、性格的な問題といった要素もあるのでしょう。
では、登用を一切断って何をしていたのか?
当初、鋤雲は隠棲していました。そんな彼に明治5年(1872年)、江戸っ子が愛する戯作者である仮名垣魯文が誘いをかけてきます。「横浜毎日新聞」に入らないかとのことでした。
鋤雲はこのとき、小栗の考えていた近代化を思い出したことでしょう。彼は新聞社創設も、近代化構想にあげていたのです。亡き友との誓いを守るべく、彼は筆で近代化に尽くすことになります。。
明治6年(1873年)には「郵便報知新聞」主筆に就任。ここには、彼と同じく小栗とジャーナリズムの必要性を語り合っていた旧幕臣・福沢諭吉とも交流が再開されます。
明治の新聞界には、旧幕臣が顔を揃えています。福地源一郎、前島密など。
さらには錦絵版「郵便報知新聞」には、家茂上洛図や上野戦争の絵を手掛けた月岡芳年も参加します。明治政府は当初、彰義隊慰霊を禁じていました。
しかしそれがゆるんでくると、芳年のような絵師が勇敢だった彼らの姿を描いたのです。新聞には当時の民衆のなまなましい感情がありました。
当初は隠棲しながら、明治5年(1872年)、仮名垣魯文の推薦で「横浜毎日新聞」に入り、以降は筆でもって活躍。
明治6年(1873年)には「郵便報知新聞」の主筆を務め、福沢諭吉とも交流を結びました。

福沢諭吉/wikipediaより引用
明治18年(1885年)、ジャーナリストを辞め、やっと隠棲することになりました。そして明治30年(1897年)、息を引き取りました。
享年76。
弐臣となるを潔しとせず
ここで栗本鋤雲との比較対象として、『青天を衝け』で主役を務めた渋沢栄一のことを思い出してみましょう。

慶応3年(1867年)の渋沢栄一/wikipediaより引用
小栗忠順が大河の主役として起用されると、こんな声も大河ファンからあがったものです。
「幕臣は渋沢栄一でやったばかりだ」
「別に斬新でもない。会津藩や新選組もあるではないか」
残念ながらこれは的を外していると指摘せざるを得ません。
まず、渋沢栄一は幕臣として相応しいのかどうか?
確かに肩書としてはそうだと言えます。しかし、当時を生きている人からすると首を捻りたくなっても無理はありません。
これは彼の主君が徳川慶喜ということがあげられます。
当時の江戸っ子に「最後の公方様は誰ですか?」と問いかけたら、十中八九、こうかえってきたことでしょう。
「そりゃおめぇ、家茂公じゃねえか」
慶喜はあくまで一橋家当主という認識にすぎず、江戸っ子も、幕臣も、江戸ではなく京都で唐突に将軍になり、逃げ帰ってきた慶喜はせいぜいが「一橋」に過ぎませんでした。
その家臣であり、三河以来でもなく、京都で仕え始めた。明治になってから伊藤博文や井上馨と親しくしている。
そんな渋沢栄一が幕臣代表だと主張したところで「どういうことでぇ」となるのは致し方ないことです。幕臣の子である岸田露伴が伝記執筆以降、渋沢の話を避けるようになったことにも、こうした事情があるのでしょう。
この渋沢栄一があくまで京都にいることが多かった点も重要です。
幕末ファンの聖地巡礼というと、薩長土の地元や会津。そして京都が定番とされます。
しかし、栗本鋤雲と小栗忠順の生涯を見てくると、おかしいと気付かれるのではないでしょうか。
ペリー来航後、一寒村から急激に発展した皆とある都市となった横浜。
同じく急速に発展し、かれらが心血を注いで製鉄所を建てた横須賀。
それがなかったようにされてきています。この流れに、栗本鋤雲は抵抗せねばなりませんでした。
彼はなぜ、新政府からの出仕要請を断り、明治の世でジャーナリストになったのか? 栗本鋤雲は、幕臣の功績忘却に抵抗したともいえるのです。
幕末の京都以来、新政府サイドの各藩はジャーナリズムの重要性を実感し、御用記者を養成するような状態でした。
例えば、京都で酒食の金を豪快に使った長州藩は京雀から喝采を送られました。
禁門の変では長州藩尊皇攘夷派が「どんどん焼け」の原因を作ったにも関わらず、糾弾されたのは幕府、京都守護職会津藩、新選組でした。
ここで幕臣や江戸っ子が負けを認め、その生きた証を踏み潰されることを許すわけにはいかない。筆でせめて抵抗することを彼らは選んだのです。
抵抗する対象としては、薩長史観では美談とされる無血開城も含まれています。
かといって慶喜は、攻撃対象とはしづらい。会津藩士であった山川浩・健次郎兄弟であれば、直接の君主にはあたらない慶喜を罵倒することは憚られませんが、栗本鋤雲は幕臣でもある。
こういうとき、使える手はあります。
君側の奸――主君を誑かしたけしからん家臣を叩くべし。そうなるのです。
攻撃対象は絞られてきました。
はるばる函館まで転戦したとはいえ、明治政府に出仕した榎本武揚。
そして、「無血開城は俺がまとめた」とことあるごとにいいふらす勝海舟――武士の忠義という観点から見ても十分この二人は許し難いものがあります。
二人の共通項として、海軍もあります。明治の海軍は幕府海軍を引き継いだともいえるものです。それを一から自分たちが育てたかのように喧伝するこの二人を見て、鋤雲は幕府海軍に尽くしていた小栗の顔を思い出し、怒りにふるえたとしても不思議はありません。
侠気溢れる鋤雲は、弟のような小栗忠順のために戦う意義を感じていたことでしょう。
『逆賊の幕臣』の設定でもあるように、小栗と勝はライバルといえばそうです。外交方針にせよ、小栗はフランス重視、それに対して勝はイギリスを視野に入れていました。その結果として、勝は坂本龍馬を育成し、西郷隆盛にまでヒントを与えるようなことをしている。
勝はあの調子のよい江戸っ子べらんめえ口調で、俺ァ分け隔てなく接するだのなんだの調子良く言うわけですが、鋤雲からすれば卑劣な裏切り自慢ともいえる。
勝は確かに言い過ぎです。鋤雲がまとめてきたフランスとの同盟にせよ、相手が本気であったわけがないとまでぬけぬけと言う。
おまけに小栗が切望していたしていたフランス借款が取り消されてしまったとき、小栗の顔面蒼白になっていたことを面白おかしく語っています。
こんな調子では、栗本鋤雲が怒髪衝天となっても仕方ないでしょう。
新聞紙上でことあるごとにさんざん勝批判をするだけでなく、鋤雲は豪傑肌であるだけに、顔を合わせたときも相手に雷を落とします。
鋤雲は、榎本武揚の顔を見た際、こう言い放ちました。
「よく俺の顔が見られるもんよ」
罵倒された榎本は、反論もできずにジッと黙っているばかり。
旧幕臣の会合で、勝海舟を見た鋤雲は、問答無用で怒鳴りつけました。
「下がれ!」
この会合には鋤雲と親しい福沢諭吉も同席しており、それこそ快哉を叫んでいたことでしょう。
福沢はこの席で鋤雲に『痩我慢の説』を見せました。
勝海舟と榎本武揚を、武士の誇りを台無しにしたと罵倒する書物でした。これには鋤雲も大喜びし、福沢の背中を押したのでした。
弍臣とならず、在野で才智を生かし、誇り高き幕臣として生きる。
栗本鋤雲と福沢諭吉には、利よりも義を選んだという共通点があります。
まさに『論語』にある「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)る」という生き方です。
それだけでなく、愛する兄弟たる小栗忠順の代わりに戦うような、そんな熱い義侠心も感じさせるのです。
ちなみに勝海舟は、幕末期幕臣の中では数少ない、研究の進展により評価が下降傾向とされる人物です。教科書から名前が消えてもおかしくない人物の一人とされております。
栗本鋤雲からすれば、当然の帰結かもしれません。
『夜明け前』“喜多村瑞見”から、『逆賊の幕臣』へ
明治以降、フィクションはそんな誇り高き幕臣にとって冷淡でした。
維新志士は華やかかつ真偽不明な逸話で盛り上げられてゆくなか、幕臣や彰義隊は江戸っ子の記憶の中に生きるしかありません。
明治政府は残酷かつ執拗なまでに、そんな記憶を消し去ろうとします。
月岡芳年が彰義隊士を描いた錦絵『魁題百撰相』は、売上好調であったものの、不可解な打ち切りにあっています。彰義隊の慰霊は正式に禁止され、緩和まで時間を置かねばなりませんでした。
その彰義隊の慰霊碑は上野にあります。
しかし、それに気づく人はどれほどいるのでしょうか。この慰霊碑から見ると、巨大な西郷隆盛像の背中が見えます。自分たちを死に追いやった西郷から、尻を向けられ続ける彰義隊があまりに憐れでなりません。
昭和4年(1929年)、島崎藤村が発表した小説『夜明け前』は、幕末を舞台としながら爽快な志士を描く娯楽作品とは異なりました。
この小説は作者の父をモデルとしています。国学を崇拝し、日本の夜明けを熱望しながら、その期待を裏切られ座敷牢に閉じ込められてしまった。そんな信州の一人の男の目線を通し、あの時代を描いているのです。
平田篤胤の国学を学んだ主人公・半蔵にとって、幕府は異人に対し無策で人々を苦しめる存在でした。
しかし、そんな幕臣の中にも才知あふれるものがいなかったわけではないともされます。
岩瀬忠震への評価はかなり高いものです。これは幕閣の事情を知らぬ国学信奉者目線での評価でしょう。
岩瀬忠震は徳川斉昭の子・一橋慶喜を将軍に推した、一橋派の大物でもあるのです。徳川斉昭・慶喜親子は水戸学や国学の信奉者にとって、敬愛の対象でした。
この作品には、そんな国学崇拝者の目線にとらわれない奇妙な人物が出てきます。
型破りな医者であり、幕府に仕える喜多村瑞見です。彼は一橋派ではないにも関わらず、傑物として高く評価されています。
かつ、彼の言動は生々しさがある。他の大名や幕臣とは違い、まるで作者が実際に出会ったてきたような人物像なのです。
それはなぜか?
まだ若いころ、島崎藤村は七十を超えて隠棲していた栗本鋤雲を訪れ、教えを請いました。この鋤雲をモデルとしたキャラクターが喜多村瑞見なのです。
藤村の鋤雲への追慕が反映されているからこそ、喜多村瑞見はメインプロットに関係ないのに、いきいきとした魅力的な像を見せています。
さらにこの喜多村瑞見の回想として、小栗忠順の「土蔵つきの売り家を残す名誉」という言葉も記されています。
栗本鋤雲と小栗忠順は、幕府が滅びたら後進の育成をしようと語り合っていました。鋤雲がその誓いを守ったからこそ『夜明け前』のなかに喜多村瑞見が残されたといえます。
この『夜明け前』発表から二十年も経たぬうち、昭和20年(1945年)、日本はアジア・太平洋戦争に敗北しました。これを契機に日本でも薩長史観の見直しが進んでゆきます。
大河ドラマ第一作は、薩長史観では不動の悪、怨敵とされてきた井伊直弼を描く『花の生涯』。二作目は明治維新のもとで苦労する幕臣の家に生まれた女性を描く『三姉妹』でした。
それが戦争の記憶が薄れ、司馬遼太郎がヒットを飛ばす高度成長期に突入すると、またしても薩長史観が蘇ります。
大河ドラマ第12作は『勝海舟』であるという反論もあるでしょう。しかし勝が幕臣の中でも高い評価である理由とは、あの坂本龍馬や西郷隆盛を感服させたという、維新への貢献で語られるものでした。
これは『青天を衝け』にもあてはまります。渋沢栄一は幕臣としてではなく、明治以降の活躍があればこその人物です。
明治維新敗者側である『徳川慶喜』。会津藩目線の『獅子の時代』と『八重の桜』。新選組を主役とする『新選組!』もあります。
しかし、京都での政局目線で描かれており、幕府が関東で何もしていなかったかのようにすら思えるのです。
こうして考えてくると、大河ドラマはやっと原点回帰を果たしたように思えます。『花の生涯』の井伊直弼の後継として、関東からフランスと協力し、近代化を進める幕臣を描く大河ドラマは実に画期的なことなのです。
栗本鋤雲が先進的な豪傑幕臣として描かれ、それが広く知られるとすれば、『夜明け前』以来であってもおかしくはない。まさに歴史の転換点であり、忘却からの回帰なのです。
斬新で、視聴者の歴史観を塗り替える、そんな『逆賊の幕臣』を期待して待ちましょう。
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【参考文献】
小野寺龍太『栗本鋤雲』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
野口武彦『ほんとはものすごい幕末幕府』(→amazon)
宮永孝『プリンス昭武の欧州紀行』(→amazon)
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