明治30年(1897年)3月6日は栗本鋤雲の命日です。
大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢栄一と共にパリへ派遣されていたことを覚えている方もいらっしゃるでしょうか。
当時は、渋沢よりも頭脳明晰な経済通・外国通として幕府内でも知られていた存在。
それゆえ、フランスからの借款が中止されたとき、急いで同国へ派遣されたのが栗本鋤雲だったのです。
しかし、彼の名前は渋沢ほど後世の我々には知られていません。
「明治時代にはいって、あまり活躍ができなかったから?」
というのは半分正解。
実は栗本鋤雲は、新政府に出仕せず、自らはジャーナリストとなって己の生きる道を貫いたのです。
幕府随一の経済通・外国通だった人物がなぜ?
その生涯を振り返ってみましょう。
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昌平黌から追い出された破天荒・栗本鋤雲
文政5年(1822年)、幕府の典医・喜多村槐園(きたむら かいえん)に三男が生まれました。
幕末に活躍した人物としては年長の部類に入る栗本鋤雲その人。
幼き頃より頭脳明晰であり、天保14年 (1843年)、幕府の最高教育機関である昌平坂学問所(昌平黌・しょうへいこう)に入学すると、あまりの秀才ぶりに周囲からこう呼ばれます。
「お怪け喜多村(おばけきたむら)」
背が高く大柄、見た目はスマートなタイプというよりは、まるで侠客か豪傑のよう。頭が良いだけでなく迫力もある。
江戸時代は髭を伸ばすことがあまりなかったのですが、フランス渡航時に撮影された栗本鋤雲は、もみあげと髭が繋がり、『三国志』の張飛を彷彿とさせる風貌をしています。
『青天を衝け』で演じる池内万作さんよりも、『おんな城主 直虎』で橋本じゅんさんが演じた近藤康用の方が、実際の容姿に近いかもしれません。
かような鋤雲ですから、杓子定規な規範には収まるわけもありません。
過激な言動と批判が過ぎて昌平坂学問所を退学。
昌平坂学問所のすぐ側に私塾を開き、門下生十数名と貧乏暮らしを送ることになったのでした。
おかずどころか米も味噌も買う金がなく、塩で煮た大根と塩辛ばかりで過ごす羽目に……。
嘉永元年(1848年)、27歳で貧乏暮らしは終わりを告げます。
奥詰医師・栗本家の養子として家督を継いだのです。
生活は安定したものの、刺激がどうにも足りません。豪傑肌の鋤雲としては、これはちょっとツマラナイ。
そんなとき、長崎の海軍伝習所から「観光丸」が江戸までやって来ました。
この軍艦はオランダ国王・ウィルヘルム2世から寄贈されたスームビング号が前身であり、伝習所が改称していたのです。
ここに第一回伝習生である矢田堀景蔵が乗り込んでいました。
彼は鋤雲の私塾出身。そんな縁もあり、鋤雲は早速観光丸に乗り込みました。
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しかし、これに対し御匙法印(おさじほういん)・岡櫟仙院(おか れきせんいん)が激怒します。
将軍の主治医であり、幕府のトップ医師とされる人物。
「オランダの技術を褒め称えるなぞ、けしからん!」
そんな怒りに触れて鋤雲は蟄居を命じられてしまいます。
函館で花開く才智
幕府は無能。海外事情も知らず、頑なに鎖国にこだわった。ゆえに明治維新によって倒された――。
世間にはそんな誤解がありがちですが、実際はそんなことありません。
幕府は、ペリー来航前から、海外への対処に当たっていました。
当時、南北戦争で手一杯であったアメリカよりも、危険視していたのがロシアです。
蝦夷地と樺太は、そんな対ロシア政策の最前線であると同時に、幕臣左遷地の定番。才能はあるけれど、トラブルメーカーでもある、栗本鋤雲にとってはうってつけの土地です。
かくして安政5年(1858年)、鋤雲は蝦夷地在住を命じられ、函館へ向かいました。
医者ではなく、箱館奉行配下で在住諸士をまとめる頭取という地位です。
鋤雲のいた函館は、外国に対する北の玄関口となっておりました。
ロシア人向け正教会やバーニャ(ロシア式サウナ)があるかと思えば、新島襄のような人物が密航出発点として選ぶ場所でもあった。
そんな鋤雲の元に、フランス人宣教師メルメ・カションが訪ねてきます。
彼はフランス駐日公使ロッシュの通訳を務めており、語学を学びたがっていた。メルメが日本語を習い、鋤雲がフランス語を習う――そんな関係が築かれたのです。
語学のみならず、メルメ・カションは技術についても鋤雲に教えてくれました。
好奇心旺盛な鋤雲は、それを函館で生かしたいと願い、実行に移します。
ざっとリスト化しますと……。
・函館医学所の設立
・江戸時代は「花柳病」と呼ばれ必要悪とされていた梅毒予防に取り組む
・七重村薬草園経営
・久根別川から函館まで船運開通
・食用牛、綿羊の飼育
・養蚕
・紡績業の開発
いかがでしょう。単なる破天荒にとどまらず、先を見る力を持っていることがわかります。
医者なのに、なぜ?
これは鋤雲が優れていただけでなく、東洋医学の思想についても考えた方がよいかもしれません。
天下国家を診察してこそ、上医である
なぜ医者が天下国家を論じるのか?
不思議に思われる方も多いかと思います。
伝説的な名医・張仲景にはこんな逸話があります。
どんな名医も皇帝の病を治せず、張仲景が呼ばれた。
彼の診察で回復した皇帝が都にとどまるように頼むと、彼は断った。
「陛下のご病気は治せますが、国の病は治せませぬがゆえ……」
名医とは、国家や政治の腐敗をも見抜き、その治療法を見出せるものである――そんな考え方が、東洋の伝統医術にはあります。
栗本のように、医者が天下国家を憂いたとしても、それは至極まっとうなことなのです。
東洋の医者には、以下のようなことを言い出す人が出てきます。
上医:病気にかからないように予防します
中医:今にも発症しそうな状態で、それ以上悪化しないように治療します
下医:病気になってから治療します
上医:国家を治療します
中医:人を治療します
下医:病を治療します
「やるのであれば上医を目指す。国を治療する医者になるのだ。政治家を目指すぞ!」
こうした考えには、東洋の伝統的な思想がありました。
神羅万象、万物が天地の間にあるからには、国家そのものが病となれば、その中にいる人間までも病んでしまうということ。
栗本鋤雲とは、まさしく東洋の上医でした。
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