山岡鉄舟

山岡鉄舟/wikipediaより引用

幕末・維新

山岡鉄舟~西郷を説得して無血開城を実現させた生粋の武人53年の生涯

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「島津の殿様なら、同じ条件で呑めますか?」

西郷の条件は以下のようなものでした。

・江戸城は明け渡すこと

・城内の兵はすべて向島に移すこと

・兵器をすべて差しだすこと

・軍艦をすべて引き渡すこと

・慶喜の身柄は備前藩に引き渡すこと

山岡は条件をほぼ呑みましたが、最後の慶喜の身柄についてだけは不承知でした。

そんなことをしたら、戦争は不可避と悟ったからです。

「朝命に従うこっがでけんのか」

西郷は凄みますが、山岡も怯みません。

「立場が逆だと考えてみてください。島津の殿様に対して同じ条件を出されて、それであなたは呑めますか。見殺しにできますか。あなたにとって義とは何ですか。こうなったら鉄太郎も我慢はできません」

そう言われると、西郷も反論できないのです。

「先生の言うこたあもっともござんで。慶喜殿のこたあ、おいが取い計らいもす」

西郷も納得しました。それから西郷は山岡に酒を勧め、通行許可証を渡したのです。

山岡の頰を、熱い涙が流れ、西郷に感謝しました。

これで何とか無血開城へと筋道がついた――。

山岡は急いで勝海舟の元に戻ります。そして山岡立ち会いのもと、西郷と勝の会談は成功し、江戸は戦火から守られます。

江戸城の無血開城の背景には、山岡必死の奔走があったのでした。

静岡県静岡市にある西郷・山岡会見の史跡碑/photo by Halowand Wikipediaより引用

 


結跏趺坐したまま死す

明治維新のあと、山岡は、徳川家に従い駿府へ向かいます。

その後、いくつかの役職を経て、西郷の推薦により、明治5年(1872年)から十年間の期限付きで明治天皇の侍従をつとめました。

剛毅で高潔な人柄は、明治天皇からも大変気に入れました。

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子爵にまで上り詰めたものの、山岡自身は無欲でした。

維新の動乱に倒れた者を弔い、明治18年(1885年)には一刀正伝無刀流を立ち上げ。

明治21年(1888年)、胃がんを患っていた山岡は、皇居に向かい結跏趺坐したまま死去します。

享年53。

晩年の山岡鉄舟/Wikipediaより引用

幕末から明治維新にかけての、激動の時代。

その時代は、策謀の多い者こそが勝つ、そんな過酷な時代でした。

維新が為されてからも苛烈な政治闘争は続き、多くの者が斃れてゆきました。

山岡のお墓がある谷中の全生庵

そんな時代に、誰も殺さず、剣と禅に生きた山岡鉄舟

無私無欲、赤誠で道を切り拓き、まさに武士道の美を体現したような生き方でした。

彼の生き方は、血と煙の動乱の最中に放たれた、透き通った矢のようです。


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文・小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
『国史大辞典』
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon
桐野作人『さつま人国誌2 幕末・明治編』(→amazon
ほか

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