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【山岡鉄舟】
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「島津の殿様なら、同じ条件で呑めますか?」
西郷の条件は以下のようなものでした。
・江戸城は明け渡すこと
・城内の兵はすべて向島に移すこと
・兵器をすべて差しだすこと
・軍艦をすべて引き渡すこと
・慶喜の身柄は備前藩に引き渡すこと
山岡は条件をほぼ呑みましたが、最後の慶喜の身柄についてだけは不承知でした。
そんなことをしたら、戦争は不可避と悟ったからです。
「朝命に従うこっがでけんのか」
西郷は凄みますが、山岡も怯みません。
「立場が逆だと考えてみてください。島津の殿様に対して同じ条件を出されて、それであなたは呑めますか。見殺しにできますか。あなたにとって義とは何ですか。こうなったら鉄太郎も我慢はできません」
そう言われると、西郷も反論できないのです。
「先生の言うこたあもっともござんで。慶喜殿のこたあ、おいが取い計らいもす」
西郷も納得しました。それから西郷は山岡に酒を勧め、通行許可証を渡したのです。
山岡の頰を、熱い涙が流れ、西郷に感謝しました。
これで何とか無血開城へと筋道がついた――。
山岡は急いで勝海舟の元に戻ります。そして山岡立ち会いのもと、西郷と勝の会談は成功し、江戸は戦火から守られます。
江戸城の無血開城の背景には、山岡必死の奔走があったのでした。
結跏趺坐したまま死す
明治維新のあと、山岡は、徳川家に従い駿府へ向かいます。
その後、いくつかの役職を経て、西郷の推薦により、明治5年(1872年)から十年間の期限付きで明治天皇の侍従をつとめました。
剛毅で高潔な人柄は、明治天皇からも大変気に入れました。
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子爵にまで上り詰めたものの、山岡自身は無欲でした。
維新の動乱に倒れた者を弔い、明治18年(1885年)には一刀正伝無刀流を立ち上げ。
明治21年(1888年)、胃がんを患っていた山岡は、皇居に向かい結跏趺坐したまま死去します。
享年53。
★
幕末から明治維新にかけての、激動の時代。
その時代は、策謀の多い者こそが勝つ、そんな過酷な時代でした。
維新が為されてからも苛烈な政治闘争は続き、多くの者が斃れてゆきました。
そんな時代に、誰も殺さず、剣と禅に生きた山岡鉄舟。
無私無欲、赤誠で道を切り拓き、まさに武士道の美を体現したような生き方でした。
彼の生き方は、血と煙の動乱の最中に放たれた、透き通った矢のようです。
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文・小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『国史大辞典』
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
桐野作人『さつま人国誌2 幕末・明治編』(→amazon)
ほか