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【ハリー・パークス】
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ルール・ブリタニア・イン・ジャパン
1867年(慶応3年)、徳川慶喜が大政奉還すると、パークスはチェックメイトを確信しました。
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「ミカド」支持派である薩摩・長州の勝利。
イギリスにとっても、これは輝かしい結果です。
明けて1868年(慶長4年)には、鳥羽・伏見の戦いで敗北した徳川慶喜が、大阪から敗走したニュースが届きます。
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このタイミングで、パークスは次の一手を指します。
列強代表者による天皇への拝謁を企画したのです。
ここで天皇と列強が友好関係であると証明できれば、時代遅れの「過激な攘夷運動」も終わることでしょう。
天皇が、攘夷をやめる。
やはりそれが手っ取り早いです。
この天皇との謁見において、パークスとフランス公使ロッシュが襲撃されると事件が発生しました。
ロッシュは激怒し、犯人の切腹を要求しました。
しかしパークスは、何の抗議も賠償請求もしません。
3日延期しただけで、予定通り天皇に謁見を果たしたのです。
「犯人を切腹させたらば、彼らは攘夷のヒーローとなるだろう。それに揉めるのはもう十分だ」
そう判断したのです。堺事件のような、誰も得をしない騒ぎを起こすのは、もう十分である、と。
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幕末の局面において、日本に最も深く介入してきたのは、イギリスとフランスでした。
フランスがともかく幕府贔屓で、箱館戦争にまで参戦した将校がいるほど熱い介入をしてきたのに対して、イギリスはクールです。
表面的には冷静中立を装いながらも、自国への利益誘導をはかり、結果を出したのです。
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パークスと勝の密約
勝利を確認したパークスでも、理解できないことがありました。
どうやら倒幕派が慶喜の処刑を望んでいるらしいのです。
「なぜ今さら敗走したタイクーンの首が必要なのだ?」
パークスは立場としては倒幕派を支援していますが、徳川慶喜の人間性を高く買っていました。
また西洋には伝統的に、降伏した将兵を丁重に扱うことで、騎士道をアピールする慣習がありました。
戊辰戦争を目撃した外国人は、両軍ともに捕虜を容赦なく扱う場面を見て、【驚愕と嫌悪感】を示しています。
そんな折、幕臣の勝海舟がイギリス公使館のパークスを訪れて来ました。
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「カツ・アワノカミ……? 彼が一体何の用だと言うのだね? 予約もない。面会する必要はない」
パークスはそう言うと、勝を放置。しかし、勝はじっと夕方まで待ち続けました。
しつこい男だ、やむを得ない、とパークスは面会しました。
パークスはそれまで勝とは顔を数回合わせた程度でした。
部下のアーネスト・サトウから「勝は傑物」という評価を聞いていましたが、好印象はありません。
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勝は、幕府とイギリスの間には未解決の問題もあるから、誠心誠意をもって解決したいと言いました。
するとパークスもだんだんと、彼の誠意を理解するようになります。
このときの勝は、全身全霊をこめて主君である慶喜助命に奔走しています。
その真剣味を理解したのでしょう。
「それであなたはこれからどうするおつもりで? 幕府が難局にあることは、私も耳にしていますが……」
パークスは、勝にそう水を向けてみました。
勝を気に入りソフトランディングへと誘導する
待ってましたとばかりに、勝は真剣に苦境を語り始めます。
同時に慶喜の助命を嘆願しました。
私とて平和裏に解決したい。
しかし、もし西軍が江戸へ攻め込む気ならば、ナポレオンを迎え撃ったモスクワのように、街中を火の海にしてでも戦うぞ――。
実際、勝は、新門辰五郎などの火消しや、侠客たちに協力を依頼し、いざというとき火をかける準備も整えておりました。
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木造住宅の密集する江戸の町が火事に弱いことは、外国人たちにもスグに知るところであったでしょう。
パークスはすっかり勝を気に入りました。
これがある意味、彼の誠実さで、たとえ敵対した幕府の関係者であっても、個人の人柄は称賛するわけです。
むろん、パークスは好悪だけで判断したわけではありません。
もしも話がこじれて、西軍と東軍で戦争になり、勝の計画によって江戸が火の海になってしまったら、イギリスが建築した建物が建ち並ぶ横浜も、無傷では済まない。となると、イギリスと日本の貿易にも悪影響が及ぶ。
なるべくソフトランディングで政権交代を行うことが、イギリスの国益にも叶う。
冷静にそう判断したわけです。
「あなたの言い分は理解しました。横浜に、アイロンジック号が停泊しています。キップル艦長を呼びますので、彼と夕食でもいかがですか」
こうしてキップル艦長も交えて、勝とパークスは夕食を採りつつ語り合います。
ここで、パークスと勝の間に密約が取り交わされたようなのです。
「これから一ヶ月、アイロンジック号を横浜に停泊させましょう」
つまり、もしも慶喜の首を西郷が要求するようなことがあれば、イギリスはアイロンジック号で慶喜をロンドンに亡命させる――というわけです。
西郷は、ずんずんと江戸に向かっておりましたが、ここでパークスから釘が刺されたとも考えられます。
「我々は慶喜公とその支持者に対しては寛大な処置を求めます。もしも身体を傷つけるようなことがあれば、新たなる政府のスタートは、初手から評判を落とすことにもなりかねません」
西郷としては「イギリスは薩摩の味方であったのじゃなかですか」と言いたかったところでしょう。
背後に勝海舟の奔走を感じ取り、『しもた!』とも思ったはずです。
ともかく、こうなったら仕方ない。
西郷としては寛大な処置が正解だと判断しました。
明治維新は、フランス革命等とは異なり、人命の損失が比較的少ないと言われています。
もちろん勝や西郷のような、日本人の判断もあるでしょう。
しかしそれだけではなく、「金の卵を産む鶏は殺さない」という、イギリスの判断と介入もあったと考えた方が自然なわけです。
明治維新のあとも、パークスは日本、中国、朝鮮半島において、外交官として活躍しました。
日本のよき理解者でもありましたが、それでも条約改正問題では日本の前にたちふさがります。
あくまでパークスは、大英帝国のために忠誠を尽くす人物であったのです。
そして1885年3月22に赴任地の北京で死去。
享年57。
ヴィクトリア朝イギリスの外交官としての一生でした。
不都合な史実?
日本人は幕末において欧米列強と対等に渡り合い、植民地化を防いだ――というのは、よく言われることです。
しかし、ちょっと冷静に考えてみたほうがよいかもしれません。
まず、列強側としても、冷静に利害を考えながら植民地支配を目指していたこと。
日本は血を流してまで獲得するよりも、介入して利益を引き出した方がよいと判断したとも考えられるのです。
とはいえ、そう認めたからといって明治維新の価値が減ずるわけでもないでしょう。
薩英戦争で痛み分けに持ち込み、「日本を支配するのは厄介だぞ」と思わせた点は大きいはずです。
【江戸城無血開城】に関しては、西郷と勝の活躍がクローズアップされる傾向があります。
しかし、背後にはパークスもおりました
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戦前は、パークスやアーネスト・サトウのようなイギリス人外交官の存在は、日本政府にとって不都合な史実であったようで、サトウの日記は、禁書扱いされていたほどでした。
現在においては、英仏からの介入を認めたところで問題はないでしょう。
そうした史実があったとしても、明治維新の価値が下がることは思えません。
フィクションでも正しく描かれれば、より奥行が深くなって良い作品となりそうです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
半藤一利『幕末史 (新潮文庫)』(→amazon)
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編 2』(→amazon)