明治の近代化は、ほとんど彼の構想を模倣したに過ぎない――大隈重信はそう語りました。
司馬遼太郎は、彼のことを「明治の父」と呼びました。
木戸孝允は、幕府の改革を目の当たりにし、徳川慶喜のことを「家康公の再来か」と感嘆しました。
しかし、これは差し引いて考える必要があります。慶喜は江戸に身を置くことはなく、京都での政治を動かす立場に過ぎません。関東における近代化は有能な幕臣たちが立案、実行したものでした。
明治新政府は、この関東の近代化を無視できてはおりません。明治維新後、江戸は薩長への反発がくすぶっています。
そうした事情もあってか、大久保利通は首都を関東ではなく、関西の大阪に遷都する計画を立てていました。
しかし、江戸は既に近代都市への一歩を踏み出しており、それを活かす方が効率的だす。新時代へ踏み出したにも関わらず、日本の首都は江戸改め東京となり、今日に至るまで続いています。
では、そんな江戸の近代化を進めたのは誰なのか?
筆頭にいたのが、2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』主役である小栗忠順(おぐりただまさ)です。
常人には無い慧眼でもって日本の未来を描いていながら、慶応4年(1868年)閏4月6日、いわれなき冤罪により処刑されてしまった悲運の幕臣なのです。
果たして小栗とは一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。

左から村垣範正、新見正興と共に写る小栗忠順(右)/wikipediaより引用
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文武の才あれど頑固で風変わりな旗本
文政10年(1827年)。
安祥譜代(あんじょうふだい・松平氏以来の家臣)禄高2千5百石の小栗家に、男児が生まれました。
神田駿河台にて生を受けたこの子は剛太郎(以降、忠順)。忠高と邦子夫妻にとって、夭折せずに育った一人の子となりました。
父の忠高は小栗家に末期養子として入っており、同家一人娘である邦子の成長を待って結婚していました。
同年に生まれた人物には、西郷隆盛、山内容堂、河井継之助がいます。
そんな家に生まれた小栗忠順は、武士らしく文武の習得を始めます。
7歳からは安積艮斎の私塾「見山楼」で漢籍を習いました。ここでははぼーっとしていて、そこまで賢そうには見えなかったと伝わります。
剣術は島田虎之助の直心影流。
柔術は久保田助太郎。
砲術は田付主計。
幼いころから際立っていたのはいじっぱりな性格で、強固な意思で友達を顎で使い回す姿。そんな性格であるためか、周りと喧嘩になることが多いものでした。
そんな彼はいつしか「頑童」と噂されるようになりました。自分とは話にならないと判断した相手には、とにかく冷淡でもありました。
のちに勝海舟は、彼を評して「生粋の三河武士で、了見が狭い」と語っています。頑固で何かに夢中になると視野が狭くなるところがあったのでしょう。
忠順は14歳の頃になると、風変わりなところがますます目立ってきます。
12、13ともなると早くも喫煙を覚えました。煙管でタバコをふかし、盆を叩く様子はひどく大人びていたとか。目上の大人相手に一歩も引かず「フン、フン」と相槌を打つ。この生意気な少年は一体どうなるのか? 周りはそう噂するばかり。
賢いといえばそうだが、どうにも理屈ぽくてかなわん。あいつはなんだ、天狗か? 狂人か? 冷腸漢(風情を理解しない男)か?
そうした証拠や証言が残されています。
忠順はやたらと細かく、当時の暮らしぶりがわかるほどの家計簿をつけていましたが、反面、情緒的な文章は残さず。ゆえに彼の事績を辿るためには、周囲の証言が重要となってきます。
例えば、花見に行ったとき。
花にも美人にも目もくれず、気にするのは水利や川の堤防のことばかりで、周囲の人たちもうんざり。
詩を詠むわけでもない。酒にも興味がない。書画に興味があるのかないのかもわからない。骨董品にも興味を示さないくせに、名人が描きあげたものは価値を納得して買い求めてゆく。
武術については剣、馬、弓のみならず、砲術の重要性を理解して習い、航海術や造船にも興味津々でした。
こうした技術を学ぶうちに、黒船来航よりもはるか前に、結城啓之助との対話を経て「開国論」にまで到達するほどだったのです。
「本多上野介に吉良上野介」「関係ないね」
天保14年(1843年)。
小栗忠順は17歳で登城を果たしました。
あまりにズケズケとした物言いだけに、反発を買って左遷されることはあったものの、突出した才能があるため、飛ばされては復職を果たすことを繰り返しました。
嘉永2年(1849年)には、林田藩前藩主・建部政醇の娘である道子と結婚しています。
彼は目の前で見たことにより判断を下し、理論を信じていました。そして迷信の類を嫌っていました。
例えば「上野介」を名乗るようになったとき、周囲はこう言います。
「上野介ねえ。本多上野介(本多正純)に吉良上野介(吉良義央)だろ。縁起が良くないなぁ」
「なァに、名前で人が変わるものかよ」
忠順の本質は、幼少期から完成していたのでしょう。
理屈ぽく、その見通しは当たる。一方で、頑固で世渡りが下手なため衝突してしまう。
そして迎えた嘉永6年(1853年)。
ペリーが来航。激動の時代が訪れました。
2年後の安政2年(1855年)、父が病死すると29歳で小栗家を相続します。
安政4年(1857年)に御使番、安政6年(1859年)には本丸御目付となり、その十日後には遣米施設目付任じられました。
かくして小栗忠順は世に出たのです。
井伊直弼に抜擢され、アメリカへ
ペリー来航後、幕政は騒然とします。
安政5年(1858年)、幕臣・岩瀬忠震とハリスが交渉し、締結された【日米修好通商条約】の中には、日本側の使節がワシントンで条約書を交換するという条件がありました。
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そのため幕府は遣米使節を編成するのですが、ただでさえ課題山積みの中、幕閣内では政治闘争が起きており、人選は難航します。外国奉行を使節のトップに据えるにせよ、これが揉めました。
このとき任命権限を有していたのは大老・井伊直弼。このとき、堀田正睦、岩瀬忠震、水野忠徳らは政治闘争等問題により任命されず、若干小粒の人事となりました。
正使・新見正興は明治になるとすぐに命を終えています。副使・村垣範正は器不足で「岩瀬忠震が副使であれば」と囁かれていました。
正使・副使・監察は「三使」とされ、使節団のトップにいます。そのうち2名が代打の上に頼りないというのは困りもの。となると、監察がいかに重大かわかろうものです。
この使節派遣において、井伊はある問題を精査したいと考えていました。
アメリカへ日本の小判がむやみに持ち出されている。
ドルの価値を見定めねばならぬ。
それができるほど経済に通じている適任者は誰か?
これを解決できる逸材、「監察」として、白羽の矢が立たったのが、他ならぬ小栗忠順――かくして77名の使節団第三位にその名が加えられたのです。
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かくして忠順は「三使」が乗船するポーハタン号に、忠順は遣米使節目付、三使末席「監察」として乗り込みました。
この「監察」」がなぜか「スパイ」と英訳されてしまい、自ら名乗るスパイとは何ごとか?と懸念されたとか。
ただ、迎えるアメリカ側としても、使節団の中で小栗上野介こそもっとも油断ならぬ知性を備えた人物として認識されていたのです。
それだけ際立っていたのでしょう。現在でもWikipedia英語版はじめ、小栗忠順は“Oguri Kozukenosuke”表記が一番通じるようです。
そしてここでは歴史の知識アップデートも必要となります。
この使節の主役はあくまでポーハタン号に乗り込んだ「三使」です。
しかしかつては教科書や日本史の授業ですら、荷物輸送のために随行した予備の咸臨丸をメインであるかのように扱うことすらありました。
これは咸臨丸に勝海舟と福沢諭吉という、筆と弁が立ち、明治以降発言力が高い二人が乗り込んでいたことが大きい。
勝が大々的に抜擢されたといえるのは、この咸臨丸が日本に戻ってからのこと。『逆賊の幕臣』PRにおいても「小栗は勝のライバル」とされるものの、遣米使節派遣時は小栗が圧倒的上位で実は比較になっておりません。
ポーハタン号にいた「三使」が明治以降、語る機会がなかったことも問題です。三名のうち二名は明治になった前後に亡くなり、残った一人も活躍したとは言い難い余生です。
この理不尽な状況は修正され、今はポーハタン号こそメインであったと認知されつつあるものの、あくまで授業の範囲か、幕末好きでも幕臣好みの間だけのことかもしれません。
『逆賊の幕臣』でこの認識が修正されるとすれば、実に大きな意義があるのです。
二ヶ月の船旅ではひどい船酔いに悩まされ、皆顔面蒼白となりつつ、ハワイを経由し、アメリカへ向かってゆきました。
3月18日、サンフランシスコに到着すると、汽車に乗りました。このとき忠順と思われる日本人が質問をしていたことが記録されています。
「建設費はどれほどかかりましたか?」
「建設資金はどのように調達したのですか?」
ペリー来航時から、船の構造を探る奴がいる。アメリカでは汽車の建設費用を聞いてくる奴がいる……そんな好奇心がそこにはあります。幕臣たちは保守的で消極的だったわけではありません。
一行がワシントンに着くと、好奇心旺盛な人々の目線が待っていました。
「あれが男? なんだか女みたいだなぁ」
「あの刀はなんだ? なんで二本も差しているんだろう?」
「あの剃った頭はいったいなんなんだろう?」
「ダボっとしたズボンだねえ。あの上着は肉屋っぽい。サンダルはなんだろう?」
大興奮で歓迎の声が巻き起こりました。
最年少17歳の立石斧次郎は、愛くるしい見た目と明るいのある性格ゆえ、アイドルになったほど。
「トミー・ポルカ」という歌まで作られ、全米からプレゼントや手紙が届いたとか。アメリカ人はわざわざ汽車で旅をして日本人見物にまで出向いてきたものですが、女性たちの目は“トミー”に釘付けでした。
忠順は調子に乗りすぎた彼を注意したこともあったそうです。
トミーの人気はアイドルとしてのものですが、幕府が送り出した三使(正史・副使・補佐)は政治的な意味で注目の的です。
『ニューヨーク・ヘラルド』は、忠順のことをこう記しました。
「活気と知性、威厳、意思力があり、使節団の中でも最も油断ならぬ人物である」
彼はアメリカの目から見ても、只者ではなかったのです。
そんな忠順の好奇心は、海軍製鉄所で見た製鉄に最も惹きつけられました。

ワシントン海軍工廠を視察する使節団(前列右から二番目が小栗忠順)/wikipediaより引用
木材や竹に頼った日本は火災に弱い。鉄が貴重で、火災の後は焼け跡から鉄を拾って使い直す。
砂鉄をたたらで生産する日本と、鉄鉱石を高炉で溶かす製鉄ではまるでちがう。
どうすれば日本でも大量製鉄ができるようになるのか?
そのことを痛感させられたのです。
そしてこのとき忠順が持ち帰った“ネジ”こそが、日本近代化の象徴とされ、現在も群馬県高崎市東善寺に保管されています。
『青天を衝け』では、このネジを舌の上に載せた状態で忠順が斬首されましたが、あの状態では現物が残りにくいことでしょう。
しかも不運なことに、あの場面が印象的で誤解も広まっているようで、2027年『逆賊の幕臣』で解かれることを願ってやみません。
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