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【小栗忠順】
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金がない! ならばどうする?
鉄や造船などの重工業。こうした国家事業を展開するのに必要なのが資金です。
小栗忠順の口癖はこうでした。
「カネが足りない……」
徳川幕府が取った政治体制を【鎖国】とは誤解を招くとされます。今では「いわゆる【鎖国】」といった言い方がなされます。
しかし、日本のみならず当時の東アジアが海禁政策を取り、貿易にそこまで熱心でなかったことは確かです。
【産業革命】が起きた西洋と水を開けられてしまいます。田沼意次以降、開国を目指したものの、実現できなかったことは確かです。
それでも奮闘する忠政に、盟友たる栗本鋤雲はこう言いました。
「しかしどこから金を捻り出す? もう、徳川は持たんのではないか」
すると忠順はこう返します。
「もう火の車だなんてこた、改めて言われんでもわかっちゃいる。だが、徳川がいざ身売りするとなったとしても、これだけの施設があれば、土蔵付きの売家を残した威張れるだろうさ。どのみち金がない、やらなかったからといって余裕ができるわけでもない。ほんとうに必要なところに金を費やすといえば、余計な出費を抑えられるかもしれんだろう」
徳川が早晩終わることは目に見えている。しかし、この国は終わらない。ならば近代化を進めておいてやろう。そう割り切っていたのです。己一人の巧利ではなく、天下国家を見据えた彼の器の大きさが窺える言葉です。
彼はそこで諦めることはせず、金を生み出し、経済を回す方法を考えます。
そうして考案されたプロジェクトが税制改革や生糸貿易、鉱山開発など。
生糸は当時の西洋列強からすれば、垂涎ものの輸出品。
シルクドレスが広まる中、欠かせぬものとして需要が右肩上がりであったにも関わらず、清は輸出に消極的だった。中でもフランスは、伝染病の蔓延により、養蚕業が壊滅的な打撃を受けておりました。
上質な生糸獲得を模索していたところ、日本を見出したのです。
さらに慶応3年(1867年)、忠順は兵庫開港を前提として、日本でも株式会社(コムペニー)の設立を提議します。
「兵庫商社」という名称で、商人の資本を集めて外国と対抗し、貿易の不利を解決するのが狙いでした。
当時の江戸では、日本初となる洋式の築地ホテル工事も最終盤にありました。
手掛けたのは清水喜助。大工の清水屋二代目棟梁であり、清水建設の創業者です。
彦根藩や佐賀藩の御用達であり、幕府からも仕事を依頼されていた清水屋は、自腹を切ってホテル建設に乗り出していました。
しかし、その計画とは忠順が立案したものだったのです。立案のみならず、実行に移すために彼が集めた商人や職人たちの人脈も、近代化に欠かせぬものとなります。
それだけではありません。
造船会社
ガス灯
郵便制度
電信
鉄道
語学学校
と、明治以降に広まる文明開花の要素は、幕末の忠順が既に青写真を描いていたものです。
むしろ明治新政府は、維新の最中に人材を殺害や放逐させてしまいました。維新に伴う内戦および人材の損失がない方が、日本の近代化は順調であったとしてもおかしくはありません。
残念ながら明治維新を経て忠順の功績とはならず、その断片を拾い集めた者たちが後を引き継いでいたのですね。
ともすれば薩長土肥の人物や渋沢栄一はじめ、明治政府に仕えた人物が発案・実行したものだと思われがちです。
しかし、日本の近代化は、幕臣による土台があったことは、これまでの大河ドラマはじめ幕末ものでも触れるべきであったとは思います。
『逆賊の幕臣』は、こうした過去の大河ドラマが広めた誤解を払拭する使命がある作品です。
幕府崩壊
小栗忠順は、ある関係に警戒を抱いていました。
諸藩とイギリスの結びつきです。
慶喜が【参預会議】を崩壊させ、薩摩藩を遠ざける一方、イギリスはこうした勢力に接近を図っていました。
それが慶応3年(1867年)、徳川昭武らが派遣されたパリ万博で露わになります。
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そして小栗が懸念する事態は、あっという間に進んでゆきます。
そして将軍慶喜の江戸への帰還。
幕府はもろくも崩壊してゆきます。
忠順は全てを後から知りました。
たしかに【大政奉還】には【倒幕の密勅】を無効にする目論見はありました。それでも小栗忠順からすれば、土佐藩の案にうかうかと乗り、幕臣や会津・桑名を絶望させた愚行です。
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もしも京都に小栗忠順がいれば、止めたであろうことは推察できます。
慶応4年(1868年)一月。
すごすごと江戸城に入った慶喜に、小栗は持ち前の鋭い舌鋒を叩きつけます。
「我々に叛逆の名に値する道理なぞありませぬ、否は、すべて相手にあります」
「なぜですか、速やかに正義の一戦に挑みましょう!」
「我々は、武士として正しい道をとるべきです!」
忠順は彼の策を述べました。
◆海軍力がある
これは勝海舟が慶喜にも指摘し、激怒していたほどでした。
榎本武揚は当時最高の海軍提督であり、軍艦装備も幕府海軍が圧倒的に上です。
英米もこれを察知しており、【長州征討】では海戦を避けるよう、幕府に強硬な圧力をかけておりました。
福沢諭吉は明治になってから、【長州征討】の時点で幕府が勝利を収めていればよかったと振り返っています。
確かに海軍を動員できれば、結果は逆転していても不思議はありません。
【戊辰戦争】でも幕府海軍は連戦不敗。
新政府側が英米の援助を受け、【箱館戦争】でようやくとどめを刺しています。海戦で幕府は負けていたとはいえない状況です。
◆陸軍力もある
京と大坂で敗北したとはいえ、まだ無傷かつ、元込め式最新鋭のシャスポー銃武装をした陸軍はおりました。
【戊辰戦争】に参戦した佐幕諸藩の軍勢も健在です。庄内藩は最新鋭の武装をしており、局地選では連戦連勝。秋田藩を追い詰めたほどでした。
フランスの支援を受け入れ、箱根から東に敵軍を誘い出す。そうすれば退路を断ち、勝つこともできる。そこで海軍を兵庫に回し、敵の背後を突く!
そのうち九州あたりで不満分子も挙兵するだろう。そうなれば全国の大名は徳川につく――そう具体性のある作戦を述べたのです。
しかし慶喜は、悪癖である臆病風に吹かれていました。
毒殺を恐れ、食事すら江戸の料理屋から出前をとる始末です。
14日、評定の席で、榎本武揚はその卑劣さに激怒しました。
「慶喜公は腰が抜けたのですか! いまさら恭順とは何事か!」
幕臣たちは怒り狂っていました。
卑劣にも逃げ、しかもその軍艦に妾のお芳まで乗せていた。徳川武士の棟梁がこれでは……そんな絶望感が煮えたぎっています。
たまらず立ち上がった慶喜の袖を忠順はつかみますが、慶喜はそれを振り払いました。
慶喜は勝海舟に全てを委ね、和宮を頼りにし、自分の首を保つことだけを考えていたのです。
そんな主君の意を受け、勝海舟が小栗忠順の前に立ち塞がります。
小栗忠順はポーハタン号、勝海舟は咸臨丸でアメリカに渡った幕臣同士の対立でした。
勝海舟も海軍力の優位性は理解しています。それでも勝てるかどうかわからない。そこを突いてきます。
さらに勝海舟はこう主張します。
「ここで内戦なんてやらかしたら、植民地にされるかもしれん!」
これはある程度説得力があるためか、現在でも用いられる理論です。
しかし過ちであるといえます。
フランスにせよ、イギリスにせよ、日本は無理に戦って植民地にするよりも同盟国としての方がメリットがあるのです。
むしろ勝はイギリスのパークスと交渉し、慶喜助命に邁進しています。
何がなんでも慶喜のために奔走した勝は、嘘八百だろうと言わねばならかったことは確かでしょう。さらに勝は生き、小栗は命を落としました。どうしたって欠席裁判状態になってしまうわけです。
しかし、後世の人間までそんな口八丁手八丁に乗っかる理由はありません。
勝海舟の仕事は明確でした。
新門辰五郎ら火消しに声をかけ、焦土作戦案を立てる。同時に、相手の敵意をかきたてる会津藩や新選組は追い払う。
主戦論者の小栗忠順も、追い払うべき存在になったのです。
袖を掴んだ翌15日、小栗は罷免を言い渡されました。
そして彼は知行地である上州権田村へ。妊娠中の妻・道子らと家族と、家臣たちを連れての退去でした。
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