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【小栗忠順】
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罪なくして斬らる
のちに彼は、彰義隊を率いて【上野戦争】を戦うことになります。

月岡芳年『魁題百撰相 森坊丸』/wikipediaより引用
忠順はそれに対し、こう返します。
開戦しようとは思った。しかしもう主君が恭順を決めたからには、名義が立たない。江戸は他人のものとなる。
会津や桑名と東北諸藩が戦うだろうが、数ヶ月後もすればおさまるだろう。
権力の争いが起き、内部分裂し、群雄割拠となるやもしれん。そうなったら、この地で檄を飛ばし戦おう。
そうならなければ、前朝の頑民(旧主以外に仕えない、弍臣にならない頑固な者)として生きようと思う……。
この見通しは、当たります。
江戸は東京として新政府のものとなる。明治の江戸っ子たちは「おはぎ(長州)とおいも(薩摩)のせいで江戸が無茶苦茶になった」と嘆きました。
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戊辰戦争は数ヶ月で終わります。
内部分裂はその通りです。群雄割拠とまではゆかずとも、藩閥政治による権力争いが生じ、士族の反乱が続発しました。
西南戦争まで動乱の世が続いたことを皆さんもご存知でしょう。
そして当時の忠順にしても、もう何もかもが遅いと思っていたのかもしれません。
忠順、そして幕府の勝機は去りました。
では、仮に、小栗忠順の策が実現していたらどうなっていたか?
ヒントは残されています。
西郷隆盛は忠順の策をみて「偉大なる権謀家」と評しています。
大村益次郎は忠順の策を知ると、これが実現していたら命がなかった漏らしたとされます。もしも実行されていたら我々は勝てなかった、と。
江藤新平も、ここまでの策を立てながら実行しなかったのは「小栗が間抜けだからね」と漏らしています。雄大な戦略がありながらも、説得できないことを「間抜け」としたのでしょう。
おそるべき大戦略が、忠順のうちには詰まっていたのです。
小栗一家は混乱した上州権田村に落ち着きます。
小栗は、打ちこわし騒動が起こる中でも大勢の民を説得し、騒ぎおさめました。その後は新居の建築を見守り、初めての妊娠となる道子の安産祈願をする中、静かに生きていたのです。
そんな権田村に、東山道軍が迫っていました。
彼らは小栗忠順に敵意を抱いていたことでしょう。
忠順は西郷隆盛の謀略を見抜いていました。西郷の息のかかった「薩摩御用盗」は、戦争を起こすために関東を荒らしまわり、強盗殺人放火を繰り返していました。
これに対して断固たる態度をとり、薩摩屋敷焼き討ちを主張した幕臣が小栗忠順だったのです。
この「薩摩御用盗」であった赤報隊を率いる相楽総三は、年貢半減令を喧伝したことから偽官軍として既に処刑されています。
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そんな油断ならぬ軍に、誇張ありきの噂が届きます。
幕臣随一の知恵者であり、徹底抗戦を主張していた小栗忠順が、権田村にいるらしい。
勘定奉行だったこともあるし、そんなことを考えていたのならば、たんまりと金もあるのだろう。そうだ、きっと「徳川埋蔵金」だ!
そう早合点し、暴徒二千人が小栗忠順を襲撃したことがあります。しかしそこは忠順のこと。鎧袖一触しました。
ここで終わればよかったものの、噂が一人歩きしたことが思わぬ事態を呼びます。
ちなみに小栗忠昌といえば、往年の民放が放映した番組のせいで、「徳川埋蔵金」と言い出す人も少なくありません。
彼の死を招いた噂に過ぎません。むしろ侮辱とすら思えるので、荒唐無稽な謬説の類として意識を改めていただければと思うばかりです。
かくして、東山道鎮撫総督府は、高崎、安中、吉井の三藩に小栗追補令を出します。
と、小栗は東善寺で彼らを出迎え、丁寧に対応しました。詮議のもととなる武器を引き渡し、捜索を受け入れたのです。
その旨を報告すると、軍監の二人、原保太郎(22歳、長州藩)と豊永貫一郎(18歳、土佐藩)が激怒します。
「どのような謝罪があったにせよ、奴は大罪人である! 早々に捕らえよ!」
豊永はあとで「先に斬った方が勝ちだと思っていた」と釈明しています。混乱の中での冤罪による死であることは確かです。
驚いた三藩の使者は助命を嘆願しますが、勢いに乗る軍監の怒りを藩に向けさせられるわけにもいきません。
やむなく小栗忠順の逮捕へ向かいました。
忠順は異変を察知し、妻子を会津と家臣を逃す手筈を整えていました。そのうえで権田村の人々に迷惑をかけるわけにもいかないと覚悟を決め、東善寺へ向かいます。
そこで抵抗することもなく、小栗忠順と家臣三名は捕らえれるのです。
閏4月6日、取調べもないまま、烏川水沼河原に引き出されました。
捕縛された忠順のもとに、食膳が運ばれてきます。彼は箸をつけません。
何か言い残すことはないかと問われ、「何もない」と答えたあと、忠順はこう言いました。
「すでに妻と母は逃した。どうか婦女子には寛大な対応を頼む」
そして彼らは河原へと連行されてゆきます。
家臣の大井磯十郎はたまらず、こう叫びました。
「一言の取り調べもないまま、お殿様がこのような最期を迎えるとは!」
忠順はおれにこう返します。
「磯十郎、おのおのがた、この期に及んで未練がましいことは申すな」
そう言い、後ろ手に縛られたところ、背後で刀を振り上げた原保太郎は、「斬りにくいじゃないか、もっと首を下げんさい」といい、棒で忠順の腰を突きました。
「無礼者!」
振り返り、激怒を顔に浮かべ、忠順はそう叫びました。その首に刀が振り下ろされ、一振り、二振り、三振り目でようやく胴と首は別れました。
このとき、主君のために叫んだ大井含め、家臣三名が斬られました。
なお、独断で小栗忠順を処刑した原は、長州閥の政治家として順調な出世を遂げ、昭和まで生き、89歳で大往生を遂げております。あとで「かわいそうなことをした」と振り返っておりますが、あまりに遅すぎる後悔ではありました。
かくして小栗忠順は、明治の世を見ることもなく、命を落としたのでした。
享年42。
しかしこのあと、養子・忠道と家人四名が取り調べもないまま斬られました。しかも西軍は小栗家の家財道具を没収し競売すると、軍資金とするのです。
小栗忠順の身重の妻ら家族は、険しい道を逃れながら会津へ。
道子は遺児・国子を産み、会津を離れ、江戸改め東京まで戻り明治を生きることとなります。この国子の婿養子となった小栗貞雄が家を継いでいます。
小栗忠順・最期の地に建てられた慰霊碑には、こうあります。
罪なくして此所に斬らる――。
『維新前後の政争と小栗上野介の死』の著者である蜷川新が、そう記したのでした。
小栗忠順が評価される新時代へ
明治時代を迎えると、小栗忠順の功績は、まるで塗り潰されたかのように消されてゆきました。
世直しを掲げ、倒幕を果たした志士たちのものとされていったのです。
これは何も明治だけでなく、現在もそうかもしれません。
明治以降から現在まで、忠順の功績をめぐる攻防は続いています。
世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がその一例です。
この世界遺産に含まれている萩の反射炉は水力が動力源です。しかし、小栗忠順ら幕府が手がけた「横須賀製鉄所」が含まれておりません。
動力の切り替えこそがまさしく近代日本の産業革命への大きな一歩となったはずでしょう。それが含まれていないことに疑念を感じます。
横須賀造船所が含まれていないにも関わらず、松下村塾はここに入っています。
松下村塾は産業というよりも、思想を学ぶ教育私塾であり、産業革命には関係ありません。選定の意図に恣意的なものを感じさせます。
しかし、偉大な功績は、完全に消し去ることができるものでもありません。
前述の通り大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語っています。
明治45年(1912年)、日露戦争終結後、東郷平八郎は自宅に小栗貞雄・又一父子を招きました。
日本海海戦に勝利できたのは造船所と製鉄所を建設した小栗忠順のおかげであると述べ、「仁義禮智信」という書を贈っています。
新政府側からもそうであれば、幕臣からすればより情熱的な顕彰がなされてきました。冤罪でありながら幕府に殉じた忠臣としての評価も加わっています。
そしてここにパワーゲームが見て取れます。
幕末を舞台とする大河ドラマを鑑賞する上でも重要ですので、ちょっと考えてみましょう。
福沢諭吉から『痩我慢の説』において筆誅を加えられ、開城をめぐり争った勝海舟の意見は興味深いものがあります。
「徳川氏しか考えてなくて、大局達観がない」
「計略はあるし、確かに世界情勢にも明るい。三河武士らしい長所も短所もあるといえばそう。しかし度量が狭い」
小栗からは距離を置いています。この中には、渋沢栄一も加えてもよいかとは思います。
「幕府は商人を見下し、登用しなかったのだから、滅びて当然である」という旨のことを書き残しており、大河ドラマ『青天を衝け』でもそう繰り返されます。
しかし、これは言いすぎです。
田沼意次から、幕府は上層部は経済のことを考えていました。経済通幕臣代表格である小栗忠順のことを踏まえたらば、それは正確ではないとわかります。
小栗忠順は、渋沢栄一が尊王攘夷派であったことも見抜いていました。
倒幕を唱える水戸学由来の思想を身につけておいて、なぜ幕臣になったのか。パリに旅立つ前、そう渋沢にチクリと釘を刺しているのです。
渋沢は小栗の死を惜しみつつも、そこまで評価しているとも思えません。
勝にせよ、渋沢栄一にせよ、徳川慶喜の恭順を肯定的に見ている側と、そうでない側では姿勢や見解に相違が生じるのでしょう。
福地桜痴のような、新政府に物申したい幕臣出身文人にとっては、小栗は「幕末三傑」(岩瀬忠震・水野忠徳・小栗忠順)でした。
「維新三傑」のみでなく、幕臣にも近代日本を築き上げる基礎に貢献した人物がいたと顕彰を続けたのです。
蜷川新ら作家も、小栗の顕彰に寄与しました。
時代がくだると顕彰も変わってきます。テレビドラマがその有力な舞台となりました。
1999年に小栗忠順の大河ドラマ化を求める陳情がNHKにありました。
2002年12月には『その時歴史が動いた』で小栗忠順がとりあげられ、翌2003年には小栗忠順が主役の正月時代劇『またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜』が放映されています。
大河ドラマ化を陳情されながら、一年持たないとされた題材が他の歴史番組や正月時代劇で扱われるというのは、上杉鷹山、大友宗麟等でもあったことです。
小栗はそんな扱いでした。
2000年代以降、幕府側を扱った大河ドラマでは『新選組!』(2004年)、『八重の桜』(2013年)があります。
しかし、ここに2021年『青天を衝け』を加えるとすれば慎重になった方がよろしいでしょう。
渋沢栄一は、小栗が見抜いていたように「倒幕派でありながら幕臣になった」のですから、あえて分類するのであれば「隠れ倒幕派」です。
そんな『青天を衝け』だからこそ、明治維新150年以上を経てもなお複雑な日本の幕末史への受け取り方が見えてきます。
渋沢栄一は前述のように倒幕に賛同しており、明治以降も長州閥と親しくしておりました。
そこには幕府の誇りを伝えたい思いはさしてありません。
そして『青天を衝け』作中での幕臣たちも、再評価されているとは言えないでしょう。
功績が見直されている岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志、栗本鋤雲……彼らが実際に何をしたのかは詳しく語られず、主役の背景でしかありませんでした。
渋沢が活躍するのは明治以降であり、幕臣としての功績はさほど目立つとはいえません。そんな渋沢を際立たせるために割りを食ったように思えます。
日本近代化の父である小栗忠順についていえば、演じる役者が筋肉質であることからか「なんでも筋肉で解決しそう!」という感想がSNSで飛び交っておりました。
大河ドラマひとつでも、その反応をとってみても、歴史の需要があらわれていて興味深いものがありました。
小栗忠順という幕末史、いや日本近代史屈指の頭脳の持ち主でも、その功績が知られておらず、役者のイメージで語られてしまうこと。
むしろそんな秀才にするよりも、筋肉質なイケメンで演じてやることこそが再評価とする向きもあること。
そして何よりも、小栗忠順は大河主役になれないこと。
小栗忠順という人物は、本人の功績のみならず、需要の面においても興味深いことは確かです。
私たちが日本にいる限り、何かしら彼の残した業績の恩恵を日々受けてはいることでしょう。
それなのに彼の功績は広まっていかない――そんな悲哀を考えずにはいられません。
しかし、興味深いことにNHKでは『青天を衝け』放映後の2022年10月、NHKスペシャル『新・幕末史 グローバル・ヒストリー』を放映しました。
この番組の再現ドラマでは『青天を衝け』と同じく武田真治さんが演じています。前半の主役は実質的に小栗忠順であり、その功績と悲運が簡潔に描かれていました。
2023年秋には『大奥』シーズン2が放映されました。
『青天を衝け』では好意的に描かれた徳川慶喜で、関連番組でもそれにならいました。
しかし『大奥』では、原作の時点で「(国の民や家臣を思う)心が無い」と評されている人物です。
男女逆転設定ながら、史実により近づけたアプローチで描かれたのです。小栗忠順は出番がなかったものの、『青天を衝け』で誤解を招いた慶喜像を修正しました。
2025年大河ドラマ『べらぼう』は、江戸を舞台とした作品でした。
この作品は【田沼政治】が大きく取り上げられています。幕府が外交に無頓着ではなかったこと。ロシアに対して対策を取っていたことを知る大きな機会となる作品といえます。
主人公である蔦屋重三郎の携わる江戸の出版業も、幕末において大きな役割を果たしています。
この作品は、2027年に向けて大きな導線となります。また番組とタイアップして放映されたEテレ『3ヶ月でマスターする江戸時代』は、これまでの江戸時代に対する誤解を解く両親的な番組で、2027年大河ドラマの予習としても秀逸でした。
2027年『逆賊の幕臣』は、日本人の歴史意識を大きく変える一歩となることでしょう。なぜ、これほどの大人物が隠されてきたのか? そう問いかける作品となることを願ってやみません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
村上泰賢『小栗上野介 (平凡社新書)』(→amazon)
星亮一『最後の幕臣 小栗上野介』(→amazon)
マイケル・ワート『明治維新の敗者たち: 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』(→amazon)
NHKスペシャル取材班『新・幕末史』(→amazon)
岩下哲典『江戸の海外情報ネットワーク』(→amazon)
『東アジアの弾圧・抑圧を考える――19世紀から現代まで 日本・中国・台湾』(→amazon)
野口武彦『ほんとはものすごい幕末幕府』(→amazon)
小倉鉄樹『山岡鉄舟先生正伝 ――おれの師匠』(→amazon)
小林道彦『近代日本と軍部』(→amazon)
家近亮子『東アジア現代史』(→amazon)
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他