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【奥羽越列藩同盟】
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「そっちがその気ならやられる前にやってやんよ!!」とばかりに、これを書いた人物を急襲・処刑してしまいました。どう見てもオリハルコン製のフラグが立ってます。
これを隠して奥羽越列藩同盟を結び、今度は京都の新政府に直接交渉することにしました。
しかし、これまた決裂。会庄同盟と同じくこちらの同盟も武力を伴った性格に変わります。
かくして戊辰戦争は全体で1年半ぐらい続きます。
世界史レベルで見た大きな内乱に比べれば短いですが、もしもこれ以上長引いていたら欧米列強からどんなちょっかい出されるかわかったもんじゃありませんしね。
戊辰戦争のリアルは悲惨だ~生活の場が戦場となり食料を奪われ民は殺害され
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国外の認識「日本には二人の帝がいる」
正式な盟約書を交わした5月3日の時点では25藩が参加。
6日までにさらに6藩が加わり、計31藩の大規模な同盟と化します。
このため正式発足の日付には諸説ありますが、今回は盟約書が交わされた日のこととさせていただきました。
奥羽越列藩同盟側の中心になったのは仙台藩の白石城(宮城県南部)です。
かつて「一国一城制度」が定められたとき、例外とされた城ですね。
関ヶ原の際には東北戦線(伊達政宗vs上杉景勝で上杉方の拠点)の舞台となり、その後、伊達政宗の右腕だった片倉景綱とその子孫たちが預かっていたところでもあります。
伊達家を支えた片倉小十郎景綱は政宗並にぶっ飛んでる? 59年の生涯まとめ
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政策や戦略もここで立てられ、北白川宮能久親王という皇族の方を盟主に戴き、その下に
◆仙台藩主・伊達慶邦
◆米沢藩主・上杉斉憲
がついて、制度はきちんと整えられていました。
そのため、外国の資料では「現在日本には二人の帝がいる」と書かれていることもあります。
なぜか外国人には同盟側のほうが優勢に思えていたようですね。
戦に負けてしまったため、実際の政治能力については評価できないようですけれども。
各地で敗退を重ね重い罪を科せられ
西軍との戦いは、無残なものでした。
戦線が分散し過ぎたこと。
秋田藩の裏切りでさらに戦場が増えたこと。
近代化が遅れたこと。
こうした諸々の悪条件が重なったため、奥羽列藩同盟サイドは各地で敗退を重ねます。
そして戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争の後で、多くの藩が減封や改易、お偉いさんの投獄・死罪という重い罪を科せられました。
もし会津・庄内藩を含めた他東北諸藩に、一人でも山岡鉄舟のような交渉役がいれば、もう少し被害が少なくて済んだのかもしれない……そう思うと、現実の世知辛さを感じずにはいられません。
山岡鉄舟~西郷を説得して無血開城を実現させた生粋の武人53年の生涯
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白虎隊などのことはもちろんですが、戦が終わった後の扱いが酷すぎますからね。
歴史は勝者が作る――とはよく言ったもので、薩長サイドに傾いた史観から【西郷らが強引に推し進めた部分】についてはあまり触れられることがありません。
特に、東北諸藩の人々が土地や家禄を奪われ、北海道へと追いやられるように開拓団を結成する流れについては、ほとんど知られることがないですしね。
ゴールデンカムイ舞台 現実の北海道開拓は想像以上に過酷だった
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その辺は漫画『ゴールデンカムイ』に関連して他の記事がございますのでお譲りします。
よろしければご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
奥羽越列藩同盟/Wikipedia