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【土方歳三】
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実践剣術・天然理心流
安政6年(1859年)、そんな土方に転機が訪れます。
25才にして、天然理心流に入門したのです。
年齢的には遅い入門。この修行を通して、盟友である近藤勇や沖田総司らとも出会いました。
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入門は遅いながら、以前から佐藤彦五郎の道場に出入りするなどして、剣術そのものは17才くらいから馴染んでいたようです。
上達も早く、資質もありました。
特に実践的な戦闘となると滅法強い。往来の気の強さ、判断力が加味されて、無類の強さとなるわけです。
「ふーん、それでトシさんは強くなるんだね」
そう軽く流してしまいそうになりますが、ここで疑問が湧いてきませんか。
なぜ天然理心流が、動乱の幕末でもブッチギリで強かったのか?
天然理心流は、寛政年間(1789年〜1801年)頃に創設された比較的新しい流派です。日野・八王子地域の千人同心を中心に広まりました。
八王子千人同心の任務は治安維持、いわば特殊部隊です。
凶悪な犯人を捕縛する人たちの間に広まったのですから、実践的な捕縛・殺人術であるのは当然。
スポーツ的に発展していった流派とは違い、相手を殺す技も多数含まれていました。
要は、本気の殺人剣術だったから強さが際立っていたのです。
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関東では悪党が暴れ回っていた
さて、そんな実践的な剣術がなぜ関東の農民にまで広まっていたか?と言いますと、時代背景的なものがあります。
太平の世とされた江戸時代も中盤以降は治安が急激に悪化。
土方ら幕末に活躍する者が生まれた天保年間あたりは、秩序の崩壊が始まっていました。
特に酷かったのが、関東地方です。
「悪党」と呼ばれる、江戸時代版モヒカン軍団のような連中がうろつくようになっていたのです。
一揆の参加者が暴徒と化した者たちのことでして。
江戸時代、一揆参加者には暗黙のルールがありました。
・野良着等、地味な農民らしい普段着を着ること
・武器の携帯は禁止
・暴力行為は禁止
「悪党」は、こうしたルールを破っていました。
・服装はド派手
・武器を携帯している
・暴力行為上等! ヒャッハー!
手に負えない連中なわけです。
早い話が、リアル『北斗の拳』状態であり、関東の治安悪化は幕末の「天狗党の乱」、「世直し一揆」で極まります。
話を戻しまして、そんな時代ですから、豪農たちは公権力に頼っていては自衛できないと考えます。
しかも彼らには真偽定かではないものの、伝承があります。それは武田のルーツです。
ときは遡りまして、家康が江戸に入った時代のこと。
滅びたばかりの北条家残党だの風魔忍者がうろつき、江戸周辺は名何かと治安が悪い。そこで家康が頼りにしたのが、武田家残党でした。
帰農した武田家の血を引くのが我々なのだ。そんな誇りがあったのです。
のちに近藤勇と土方歳三は、改名の際に武田ルーツを前に押し出しました。講談や武者絵で武田信玄の戦いぶりを学んでいたのが当時の民衆。武田を思えば、カッと血が燃えたぎったことでしょう。
そこで彼らは、まだ10代の跡取りたちを天然理心流に入門させました。こうして関東には、リアル殺人剣をマスターする若者たちが溢れることになるのです。
そんな若者の一人に、日野宿の名主・佐藤彦五郎がいました。
彼はある日、とんでもない事件に遭遇します。
嘉永2年(1849年)、「染っ火事」と呼ばれた火災の最中に、祖母が賊に斬殺されてしまったのです。
このマッドな世界において、もはや強くなければ生き残れない—そう痛感した佐藤は、天然理心流道場の門を叩きました。さらには自宅を改造し、天然理心流の道場とします。
土方は、この道場に出入りしておりました。
幕末関東というリアル『北斗の拳』を生き延びるため、腕を磨いた新選組幹部たち。彼らからすれば、スポーツのような道場剣術を学んだ武士など、弱くて当然でした。
幕末期になると、多摩の農民は剣術だけではなく、ゲベール銃による「農兵銃隊」まで組織していました。
要は、それだけ殺伐としていたのですね。
郷中教育を習得した究極の戦士である薩摩藩士と、多摩の農民出身の剣士たちがトップクラスの強さ。
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関東、どんだけ地獄だったんよ!と思ってしまう話ですね。
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