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【土方歳三】
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流山での別れ
「こうなったら会津に向かおう。そこで、戦うしかねえ」
意気盛んな土方は、隊士を募集して転戦すべく闘志を燃やします。
彼らは下総国流山に本陣を置きました。
一方で、西軍は板橋に本陣を配置。
4月3日、近藤勇は新政府軍に捕縛されます。自ら出頭したという説もあります。
気力が尽きてしまったのか、流山を戦場にしたくなかったのか。
新政府軍には、御陵衛士残党がいました。近藤は、大久保大和という変名を使っていたものの見破られ、切腹すら許されないまま斬首刑。享年33。
その首は、三条河原に晒されて行方がわからなくなってしまいました。
土方は、勝海舟に面会して近藤の助命嘆願を願っていました。
が、叶うわけもありません。
そこで江戸からの帰り道、抗戦を願う東軍と合流。
そこにいたのが幕臣の大鳥圭介でした。
北へと転戦
近藤のみならず、土方がかつて戦った戦友たちが散っていきました。
肺結核の療養中であった沖田総司が、療養先で死去。享年24(諸説あり)。
上野戦争で、彰義隊に加わっていた原田左之助が戦死。享年29。
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新選組も、幕府も、崩壊していく中、それでも土方は戦い続けます。
それどころか、指揮官としての才能を遺憾なく発揮するようになったのですから皮肉と言いましょうか。
「鬼の副長」と呼ばれ、冷酷さを強調されてきた土方は、この頃から慈愛に満ちた器の大きさを見せるようになりました。
函館まで土方と運命をともにした中島登は、こう振り返っております。
「年が長ずるに従い、温和で、皆は赤子が母を慕うように彼のことを慕った」
そのカリスマ的な采配ぶりは、部下を魅了し、奮い立たせておりました。
「退く者は斬る!」
土方のものとして有名な台詞は、宇都宮戦争での言葉とされています。
宇都宮城下を炎に包みながらも、東軍は勝利をおさめます。しかしそれも一時的なことで、わずか数日後には西軍に敗走させられました。
そのあと、土方は北へ転戦を続け、会津藩の入り口である母成峠へ向かいます。
ここも圧倒的な兵力を持つ西軍に突破され、土方も会津へと向かうほかありません。
会津藩の滝沢本陣には、藩主である松平容保と、まだ子供のような少年たちがいました。
白虎隊です。
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「新選組の土方歳三様だべ!」
主力部隊が出払い、予備軍である白虎隊が出陣することになっておりました。
彼らの年齢は、現在の高校一年生から二年生程度。
16才から17才の少年で編成されたばかりか、年齢をサバ読みして参加した、さらに幼い者も含まれていました。
「新選組の土方歳三様だべ!」
まだあどけなさを残した少年たちは、土方の姿を見ると喜んで話しかけて来ました。
土方は、この少年たちによく声を掛けていたと伝わります。
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また会津での土方は、東山温泉で傷を治し、天寧寺では近藤勇の墓を作ったとも(庄助の宿 瀧の湯)。
会津藩が降伏間近になると、幕臣たちはさらに北へと向かおうとします。
しかし、斎藤一は首を横に振りました。
「俺は会津に恩義がある。ここで戦い抜くつもりです」
彼もまた、土方と袂を分かちました。
明治以降も生き抜いた斉藤は、最期の時に会津に埋葬するよう言い残しました。
彼の遺族が寄付した写真は、会津若松市内の福島県立博物館に保管されています。
斎藤の魂は、今も会津に留まっているのかもしれません。
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北の大地に散る
それでも土方は、戦うことを止めませんでした。
仙台に向かうと、仙台藩はすぐに降伏。土方はさらに北へ、蝦夷地を目指します。
目指した場所は、函館でした――。
明治元年(1868年)、東軍は五稜郭を占領。投票を経て、土方は陸軍奉行並に任命されました。
しかし物足りなかったのか。
土方は松前城も急襲します。
海からの攻撃には備えが十分な松前城も、内陸方面は貧弱であり、土方はこれを陥落させています。
勝利を得て、ますます意気盛んになる土方。
函館では会津藩士・秋月登之助と意気投合していたと伝わります。
明治2年(1869年)3月には、宮古湾で果敢なアボルダージュ=接舷攻撃を行い、敵をも感服させています。
土方は、形成不利になっても戦い続けました。
意地とかプライド等といったものは超越したような戦いっぷりで、その意志力は人知を超えたレベルだったのかもしれません。
土方の胸には、常に近藤勇のことがありました。先に死なせた。もう生きることは望まない。勇猛果敢な姿を見せ、どうかあの世で――そう願っていてもおかしくはありません。
攻め寄せる西軍にとって、榎本武揚は西洋知識を吸収した使い所のある人材です。実際に、黒田清隆が剃髪してまで助命嘆願しています。
しかし土方は、使い道がありません。彼には、先がなかった。
そして、5月11日。
戦闘の際に銃弾に当たり戦死。
享年35でした。近藤より遅れることおよそ一年での死であります。
かつて呉服屋に勤め、鋏をうまく使った青年。
あまり上手とはいえない俳諧を嗜んでいた青年。
土方歳三は、わずか数年間で一介の青年から「鬼の副長」となり、不屈の将となり、忠義の限りを尽くして、北の大地に散りました。
たとえ身は蝦夷の島根に朽つるとも 魂は東(あずま)の君やまもらむ
【意訳】たとえこの身が、蝦夷地の果てに散ったとしても、魂は東にいる将軍を守るだろう
武士以上に武士道をまっとうした、多摩のバラガキでした。
トシさんよ、永遠に
土方歳三は、35年の人生を終えたということになっています。
これはあくまで、歴史の中の話。
フィクションでは今なお幕末屈指の人気者です。
司馬遼太郎『燃えよ剣』や大河ドラマ『新選組!』はじめ、数多の作品で人気俳優が彼を演じてきました。
栗塚旭さん、山本耕史さん……年代ごとに、土方といえばコレ、という像がありますよね。
女性の人気も高く、新選組をモチーフ尾とした乙女ゲームやアニメも多数存在します。
松下村塾、精忠組、亀山社中をさしおいて、なぜ新選組ばかりが乙女ゲームになるのか、というのはなかなか不思議な話です。
まだまだ土方は戦うべきだ、という作品が多いのも特徴でして。
明治期の北海道、はては異世界で、土方歳三が戦い続ける作品が存在します。
・手塚治虫氏作『シュマリ』
・平野耕太氏作『ドリフターズ』(4巻表紙)
・野田サトル氏作『ゴールデンカムイ』(3巻・14巻の表紙)
※1:12あたりから土方の紹介
トシさんは死ぬのが早すぎた、惜しすぎた、もっともっと戦って欲しかった――そんな気持ちも込められているのでしょう。
最期まで権力に抗い、戦い続けた熱い魂が、反骨精神人々を魅了しているのかもしれません。
彼の命は北海道の大地に散って、もうおよそ150年経過しています。
しかしその魂はまだ生き続けて、今日もどこかで戦い続けているのでしょう。五稜郭タワーには、函館の街を見つめる彼の銅像が置かれ、人々を見守っています。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
土方愛『子孫が語る土方歳三(新人物往来社2005年刊行)』(→amazon)
蔵田敏明『「新選組」土方歳三を歩く (歩く旅シリーズ 歴史・文学)』(→amazon)
『国史大辞典』