こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【土方歳三】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
「嫌やわあ、汚らしい浪人やわあ」
みすぼらしい服装、無骨な関東訛りで胡散臭い男たち。
「壬生に住んでいる狼どもや」ということで、京都の人々は「壬生狼」と呼び、新選組を嫌っていました。
凶暴であるとか、理由はいろいろ言われていますが、洗練されていてスマートでないと、京都の人から認められないワケです。
新選組と会津藩士は、この時点で京の民のお眼鏡にかないませんでした。
あまりにみすぼらしいということで、隊は制服を作ります。
浅葱色に白い山形模様の、あの羽織です。
江戸時代、浅葱色は羽織には使用しないもので、しかもかなりダサく、死に装束に使う色でもありました。
生地はペラペラで薄く、冬期間は寒く実用的でもありません。
着用されたのは元治元年(1864年)頃までで、廃れてしまったそうです。
土方自身も「ダサすぎる」と気に入っていなかったそうで、袖すら通さない隊士もいたとか。そもそも柄からして赤穂浪士コスプレの発想なんですよね。
イメージカラーも、浅葱色から黒に変更されています。2021年映画『燃えよ剣』では黒制服が再現されました。
フィクションで新選組といえば浅葱色ですけどね。
「局中法度」に背くな
新選組は【敵よりも味方を粛清した数の方が多い】とまで言われている組織です。
粛清の始まりは、酒癖の悪いトラブルメーカーである芹沢鴨に率いられた水戸藩士一派でした。
繰り返しますが、これは芹沢だけの問題というよりも、極度に暴力的になっていた幕末水戸藩の気風ゆえでしょう。当初から「あいつらとはやってられない!」という声があったそうで。
文久3年(1863年)9月、しこたま酒を飲み、愛妾を抱いて寝込んでいた芹沢は殺害されました。
現在、暗殺現場である八木家では、楽しいガイドさんとおいしい和菓子つきで、案内してくれます。
バッチリ刀痕も残っておりまして、生々しい現場も、現在では観光スポットです。京都旅行の際は、是非お立ち寄りください(参照サイト)。
芹沢一派がいたころの新選組は、行く先々で危険な喧嘩も起こす、気の荒い集団でした。
行く当てのない若い、しかもリアル『北斗の拳』ワールドでも生き抜ける青年集団です。
暴力に走っても仕方ありません。酒も飲めば、女遊びだってします。
壬生近辺に在住の人から「あの道を通って、近藤や土方らが、遊郭に向かって行ったんやて」と聞いたことがあります。ご先祖から語り継がれた話だそうです。

島原大門/photo by 上田隼人 wikipediaより引用
そうなってくると、ルールを決めねばなりません。
それが以下のような「局中法度」でした。
一、士道ニ背キ間敷事
(武士道に背く行為は禁止)
一、局ヲ脱スルヲ不許
(新撰組からの脱退は禁止)
一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をすることは禁止)
一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で訴訟に関係することは禁止)
一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な争いは禁止)
右条々相背候者切腹申付ベク候也
(以上いずれかに違反した者は、切腹を申し渡す)
背いたらバンバン切腹させられるわけで、粛清者は当然増えました。
さらには長州藩や薩摩藩、尊皇攘夷の倒幕派がスパイを送り込んでくることもあり、ルールの適用は厳格になってゆきました。
厳しい組織運営の中、土方は変貌してゆきます。
多摩で俳諧を趣味としていたイケメンの元アパレル店員は、その厳しさで知られるようになっていくのです。
後世になると、彼はこんな評価をされるようになりました。
鬼の副長――。
ただし、これは組織運営上いたしかたないうえに、誇張もあります。
幕末の組織は多かれ少なかれ、身内同士での凄惨な殺し合いが発生することが多い。
薩長土ともなれば、勝者なのでロンダリングされるということです。
ではみてみましょう。
・長州藩:俗論党の粛清、奇兵隊の脱退騒動まで続く。徹底して負けた側の記録を排除しようとしたため、今での悪影響が残っている
・薩摩藩:寺田屋騒動。西南戦争だってたどれば薩摩藩の内輪揉めの拡大である
・土佐藩:武市半平太の吉田東洋暗殺。これに復讐を誓った山内容堂が土佐勤王党を徹底弾圧、粛清した
・水戸藩:【天狗党の乱】およびその復讐により、人材が尽き果てるほど壊滅する
明治維新後しばらく続いた【不平士族の反乱】にせよ、究極の内輪揉めといえます。【桜田門外の変】以降、日本人がテロを世直しと考えて荒れ狂ったことは指摘されるところです。
新選組は負け組であり、人気があるため、イメージが増幅されていますが、実はどこも似たようなものです。
水戸藩などはなまじ凄惨すぎ、かつ壊滅したため、むしろ目立たなくなっております。
話を土方に戻しましょう。
土方と同時代の人々は、彼の人当たりの良さと、容貌の美麗さを賞賛しています。
特に函館へ向かうときは、部下にあたたかい接し方であったと伝えられています。実務能力があり、近藤勇の補佐を務めつつ、隊士をまとめる。そんな資質があったのが土方なのでしょう。
「池田屋事件」
なんだか無茶苦茶強い新選組。
以前から尊皇攘夷派は危険視しており、その名が決定的に有名となるのが元治元年(1864年)の「池田屋事件」です。
この事件で、彼らの驚異的な戦闘力があらわになりました。
圧倒的劣勢で敵地に踏み込み、会津藩士が駆けつける前にあらかた征圧したその実力、京都を震撼させるのです。

池田屋跡
派手な事件だけに後世話が大変盛られてしまっており、
といった事柄は史実かどうか、検証の必要性があります。
土方は、当初池田屋に踏み込んでおらず、戦闘への参加は遅れています。といっても報奨金は出ていますので、参加はしています。
しかし、高まる土方人気のせいで脚色するフィクションがあるためか、誤解されていることもあります。
【八月十八日の政変】と【禁門の変】の間に起きていた事件ということも重要です。

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用
【池田屋事件】の後に起こった【禁門の変】でも、新選組は活躍します。
このとき「どんどん焼け」という大火災が発生しておりますが、京都の人々は、会津藩と新選組が嫌いで長州贔屓のあまり、
「あの連中が、長州のお侍さんをいぶり出すために、火をつけて回ったんや!」
と信じていたそうです。
状況的に火災の原因を把握することはできません。
このあたりが、新選組の活躍頂点ともいえる時代でした。
※続きは【次のページへ】をclick!