土方歳三

土方歳三/wikipediaより引用

幕末・維新

土方歳三35年の生涯まとめ~幕末を生き急いだ多摩のバラガキが五稜郭に散る

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将軍様のために上洛したが

超実践剣術の天然理心流道場には、スポーツ剣術では物足りなさを感じている、威勢のいい青年たちが集うようになりました。

豪農出身でも相楽総三のような、尊皇攘夷思想を学んでそちらに傾倒する者もいましたが、土方や近藤は違いました。

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当時の憂国青年同様、国のために戦い、異国の脅威を打ち払いたいという思いはあったものの、あくまで彼らは

【将軍家のために尽くしたい】

と願っていたのです。

そんな彼らの運命を左右するニュースが、文久3年(1863年)に飛び込んできました。

「将軍様が上洛する! その護衛を募集しているらしい!」

取締役は山岡鉄太郎(鉄舟)。

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京都に向かう道すがら、近藤一派はトラブルに遭遇します。

宿の手配を担当していた近藤勇が、本庄宿でついうっかり水戸藩士・芹沢鴨一派の宿の手配を忘れたのでした。

あてつけに野宿すると焚き火をし出すわ、大変な騒ぎに。近藤はこういうことには向かない性格だったんでしょうね。山南敬助がこのあと宿予約担当者に交替しました。

こうした芹沢一派の荒くれぶりは、粛清した近藤らを庇うため、強調されている一面がありますのでご注意ください。

ただ、幕末諸藩において最も気が荒かったのが、水戸であったことは確かですが。

新選組ですら受け入れられない水戸藩――これはなかなか、重要です。

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そして京都では、さらなる大きなトラブルに直面します。

浪士を率いていた清河八郎が、こう宣言したのです。

「我々は将軍家茂の警護ではなく、尊皇攘夷の魁となるのだ!」

近藤らは、ポカーンです。

そんなの話が違うじゃないか、というわけです。

清河八郎/wikipediaより引用

清河はアヤシイ詐欺師まがいの扱いをされることが多い人物ですが、彼も彼なりに思想があり、交友関係をみていくとこの行動はそこまでおかしくもないかも、とは思います。

人望もあるらしく、山岡鉄舟らとも親しくしています。

しかし、近藤らからすればそんなのは知ったことではありません。

浪士たちは江戸に戻りますが、納得できない一派が京都に残留しました。

近藤一派と、芹沢鴨一派です。

 


「新選組」結成

八木家に留まった一派ですが、幕府から得られる収入もなく、身分の保証もありません。

そこで彼らが頼ったのが、半年ほど前に発足した組織「京都守護職」の松平容保でした。

松平容保/wikipediaより引用

江戸時代の京都守護は慣例的に井伊家が担当していました。

が、井伊直弼暗殺以来、その余力も消滅。そこで白羽の矢が立ったのが、律儀で徳川家に忠誠心が篤い会津藩であったのです。

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容保は悩みに悩み、その気持ちを歌に詠んでいます。

行くも憂し 行かぬもつらし 如何にせん 君と親とを 思ふこころを

上洛してからも、容保は苦悩の日々が続いていました。

はじめ、容保は「言路洞開」を模索しました。

「いくら考えが違っても、同じ武士なのだから」

話し合えば凶悪な尊皇攘夷派とて、何とかなるはずだと信じていたのです。

しかし、当時の浪人はそんな生やさしいものではありませんでした。

脅迫、暗殺、襲撃、死体損壊……相次ぐ凶悪事件に、京都守護職は厳しい対応が迫られることになります。

そんな沈鬱な青年藩主・松平容保に対して、浪人一派はお抱えにして欲しいと直訴。と、これが意外にも承諾されるのです。

リアル『北斗の拳』を生き抜いてきた浪士たちの参戦によって、京都守護職の戦闘力は格段にアップしました。

が、それがよかったかどうかは難しいところではあります。

かくして、八木家の門には、こう書かれた札が掲げられました。

「松平肥後守御預新選組」

"新たに選ばれた組だから”新選組って――誇らしげに名乗った彼らですが、京都の町民からは嫌われました。

そうはいっても、これは些細なことかもしれません。

「新選組」とは、もとは会津藩にあった組織名です。それをわざわざ使用を許されたのですから、大したもの。土方歳三は、和泉守兼定も賜ることになります。

和泉守兼定は会津在住の刀鍛冶であり、猪苗代湖の浜から採取した砂鉄で刀を作り上げました。

会津藩士の標準装備であり、幕末のものでは古道具屋ではさほど高値がつかないほど出回っております。見かける機会も恵まれている部類です。

しかし、そんなことはどうでもよい!

幕末の時勢にあわせていて、実践的で、会津の砂鉄で作られている、そこが大事です。

人気ゲーム『刀剣乱舞』でも、その意義をしみじみと刀剣男士・和泉守兼定が語ってくれています。この刀剣男士は江戸っ子らしい口調。会津訛りは抜け、持ち主の話し方がうつったんでしょうね。

 


「嫌やわあ、汚らしい浪人やわあ」

みすぼらしい服装、無骨な関東訛りで胡散臭い男たち。

「壬生に住んでいる狼どもや」ということで、京都の人々は「壬生狼」と呼び、新選組を嫌っていました。

凶暴であるとか、理由はいろいろ言われていますが、洗練されていてスマートでないと、京都の人から認められないワケです。

新選組と会津藩士は、この時点で京の民のお眼鏡にかないませんでした。

あまりにみすぼらしいということで、隊は制服を作ります。

浅葱色に白い山形模様の、あの羽織です。

江戸時代、浅葱色は羽織には使用しないもので、しかもかなりダサい色。死に装束に使う色でもありました。

生地はペラペラで薄く、冬期間は寒く実用的でもありません。

着用されたのは元治元年(1864年)頃までで、廃れてしまったそうです。

土方自身も「ダサすぎる」と気に入っていなかったそうで。

袖すら通さない隊士もいたとか。そもそもが、柄からして赤穂浪士コスプレの発想なんですよね。

イメージカラーも、浅葱色から黒に変更されています。2021年映画『燃えよ剣』では黒制服が再現されました。

フィクションで新選組といえば浅葱色ですけどね。

 

「局中法度」に背くな

新選組は【敵よりも味方を粛清した数の方が多い】とまで言われている組織です。

粛清の始まりは、酒癖の悪いトラブルメーカーである芹沢鴨に率いられた水戸藩士一派でした。

繰り返しますが、これは芹沢だけの問題というよりも、極度に暴力的になっていた幕末水戸藩の気風ゆえでしょう。当初から「あいつらとはやってられない!」という声があったそうで。

文久3年(1863年)9月、しこたま酒を飲み、愛妾を抱いて寝込んでいた芹沢は殺害されました。

現在、暗殺現場である八木家では、楽しいガイドさんとおいしい和菓子つきで、案内してくれます。

バッチリ刀痕も残っておりまして、生々しい現場も、現在では観光スポットです。京都旅行の際は、是非お立ち寄りください(参照サイト)。

芹沢一派がいたころの新選組は、行く先々で危険な喧嘩も起こす、気の荒い集団でした。

行く当てのない若い、しかもリアル『北斗の拳』ワールドでも生き抜ける青年集団です。

暴力に走っても仕方ありません。酒も飲めば、女遊びだってします。

壬生近辺に在住の人から「あの道を通って、近藤や土方らが、遊郭に向かって行ったんやて」と聞いたことがあります。ご先祖から語り継がれた話だそうです。

島原大門/photo by 上田隼人  wikipediaより引用

そうなってくると、ルールを決めねばなりません。

それが以下のような「局中法度」でした。

一、士道ニ背キ間敷事
(武士道に背く行為は禁止)

一、局ヲ脱スルヲ不許
(新撰組からの脱退は禁止)

一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をすることは禁止)

一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で訴訟に関係することは禁止)

一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な争いは禁止)

右条々相背候者切腹申付ベク候也
(以上いずれかに違反した者は、切腹を申し渡す)

背いたらバンバン切腹させられるわけで、粛清者は当然増えました。

さらには長州藩や薩摩藩、尊皇攘夷の倒幕派がスパイを送り込んでくることもあり、ルールの適用は厳格になってゆきました。

厳しい組織運営の中、土方は変貌してゆきます。

多摩で俳諧を趣味としていたイケメンの元アパレル店員は、その厳しさで知られるようになっていくのです。

後世になると、彼はこんな評価をされるようになりました。

「鬼の副長」と。

ただし、これは組織運営上いたしかたないうえに、誇張もあります。

幕末の組織は多かれ少なかれ、身内同士での凄惨な殺し合いが発生することが多い。

薩長土ともなれば、勝者なのでロンダリングされるということです。

ではみてみましょう。

・長州藩:俗論党の粛清、奇兵隊の脱退騒動まで続く。徹底して負けた側の記録を排除しようとしたため、今での悪影響が残っている

・薩摩藩:寺田屋騒動西南戦争だってたどれば薩摩藩の内輪揉めの拡大である

・土佐藩:武市半平太の吉田東洋暗殺。これに復讐を誓った山内容堂が土佐勤王党を徹底弾圧、粛清した

・水戸藩:【天狗党の乱】およびその復讐により、人材が尽き果てるほど壊滅する

明治維新後しばらく続いた【不平士族の反乱】にせよ、究極の内輪揉めといえます。【桜田門外の変】以降、日本人がテロを世直しと考えて荒れ狂ったことは指摘されるところです。

新選組は負け組であり、人気があるため、イメージが増幅されていますが、実はどこも似たようなものです。

水戸藩などはなまじ凄惨すぎ、かつ壊滅したため、むしろ目立たなくなっております。

話を土方に戻しましょう。

土方と同時代の人々は、彼の人当たりの良さと、容貌の美麗さを賞賛しています。

特に函館へ向かうときは、部下にあたたかい接し方であったとか。鬼どころか、優しさもあったのが土方ではないかと思えます。

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