原田左之助

幕末・維新

新選組十番隊組長・原田左之助~幕末をひたむきに生きた青年剣士29年の生涯

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槍の名手

その後、大阪へ向かった左之助は、谷万太郎から槍術を学びました。

種田流とも、宝蔵院流ともされており、免許皆伝を受けると槍の名手として知られるようになります。

そんな原田が、どうして試衛館に出入りし、新選組に入るのか?

このあたりは不明瞭です。

永倉新八のように生存し、かつ語り残すこともなく、ハッキリとしていない。

ともかく試衛館には血気盛んな若者で盛り上がっており、その熱気や近藤勇の人徳にあこがれて、原田もやってきたのでしょう。

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文久年間になったばかりのころ、試衛館は得体の知れない連中がやたらと出入りするようになっておりました。

「なんでえ、あいつら、べえべえべえべえ……田舎くせえ連中だな」

道場近隣の江戸っ子たちはそう陰口を叩き、“肥溜め道場”というありがたくないあだ名すら付けられています。近藤らの訛りをからかっていたんですね。

そんな中で、原田はさぞやいきいきとしていたのだろうと想像したくもなりますが、そうでもなかったようでして。

得意の槍をとるわけでもない。

かといって、木剣や竹刀を手にするわけでもない。

道場に続く畳敷きでゴロゴロ寝てばかりだったとか。

土方歳三は、ふらりとそんな試衛館によく立ち寄りました。

家伝の石田散薬を入れた箱を置き、そのまま吉原の遊郭に行き、朝帰り。すると、原田や永倉といった連中が朝食をとっているわけです。

「ったく、近藤さんも人がいいもんだな……」

土方は挨拶するわけでもなく、横目で彼らをチラッと見るだけで立ち去っていたとか。

近藤勇は、わけのわからん原田を追い出すことはありません。むしろ寝場所と食事を提供したのでした。

関羽に憧れていたという近藤には、義を重んじる美風がありました。

試衛館とは、さながら幕末梁山泊であったのです。

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のちに永倉や原田は「近藤の態度が変わった」と不満を募らせるようになります。

彼らの脳裏には、人徳に溢れ、器の大きい近藤の姿があったのでしょう。

 


芹沢鴨を粛清

挿話からしてともかく血の気の荒い原田左之助

上洛から新選組結成までにおいてはあくまで脇役でした。

もちろん原田のような血の気の多い青年が、黒船来航以来の激動の時代で、ジッとしているわけもありません。

文久3年(1863年)、芹沢鴨を暗殺し、近藤勇一派が新選組を掌握する中において、原田も刺客として存在感を見せています。

原田と気の合う永倉新八はこのことを知らされておらず、事件発生後に知りました。

この芹沢鴨の粛清は、フィクションで描かれるような派手な顛末があったことは確かで、京都の八木家に行けば美味しいお茶と和菓子つきで、ガイドの方から聞くこともできます。

◆八木屋(壬生屯所旧跡)(→link

芹沢派の粛清後も、同様の行為は止まりません。

新選組内部では長州藩間者(スパイ)の粛清が相次ぎ、その一人である楠小十郎は原田に背後から襲撃のうえで殺害されています。

そこで「あァ気持ちいいな」と口走った原田を、近藤は嗜めたとされます。

原田の異常性を象徴するかのようなこの話。政治的な背景や時代のことを考慮する必要性も感じます。

◆幕末当時の青少年はともかく暴力的解決手段に酔っていた

→ あの知性派である渋沢栄一すら、世直しのために城を乗っとる計画を立てたほど

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◆新選組は無思想ではない

→多摩豪農出身者である近藤勇を中心とした派。尊王攘夷を掲げた水戸藩出身の芹沢派。のみならず長州藩出身者もいた

 


新選組に潜り込んだスパイの有無

芹沢鴨の一件をはじめ、新選組には「スパイ&粛清」の話がついて回ります。

フィクションであれば確かに面白い要素となるのですが、実際のところはいくつか大きな疑問が湧いてきます。ピックアップしてみますと……。

◆結成したばかりの「壬生浪士組」をわざわざスパイする?

→まだどういう集団か、本人たちすらわかっていない

◆スパイとバレバレの潜入する?

→「長州藩? これはスパイだな!」となるようでは意味がない

◆長州藩と会津藩の対立軸はまだ確立していないのでは?

→決定打となる事件前夜であり、結果論としての誘導を感じる

◆そもそも長州藩が揉めている

→実は長州藩そのものが分裂しておりました

様々な要素を考えるに、そう容易くスパイが潜り込まれたとも思えません。

そうなると次の大きな疑問が湧いてきます。

ではなぜ新選組は隊士を粛清したのか?

これもまたいくつか要因をピックアップしていきますと……。

◆幕末の宿命

→意見の相違で殺し合いになるのは様々な藩や団体であり、その中でも新選組は知名度が高いので目立つ

◆入隊チェックが緩い

→身分や出身を問わず入隊できるため、様々な素性の人物が入り込める(郷中制度を母体とし閉鎖的な薩摩藩とは対照的)

◆世直しを掲げている点は同じ

→思想的には、新選組もその他の浪士も、実は大差がない

とまぁ、人の流動性が高ければそれだけ怪しい人も来るし、意見も対立します。

藩や塾が主体となっていないだけに、まとまりに欠けやすいものでした。

仮に現在のような「求人広告」を出すとこんな感じになりそうです。

求人

勤務内容:世直し

条件:武士登用制度あり!

居住地は?:八木家、アットホームな職場です!

剣術は?:永倉、沖田、斎藤……親切丁寧に指導します!

経験は?:未経験者歓迎!

知名度は?:洛中シェアNo.1をめざします!

給与は?:もちろん幕府からの賞与有

必要なのは?:やる気と笑顔、度胸

モットー:よりよい国をめざします! 夢に向かって頑張りましょう!

いかがでしょう。新選組に入りたくなりますか?

なんだか胡散臭い雰囲気で、できれば避けたくなりませんか?

しかし当時の若者は「世直しっていいね!」とばかりに入隊してしまう。

そして勤務開始後、雇う側も雇われる側も違和感を覚えることがあるわけです。

芹沢鴨がなぜ粛清されたのか。暗殺の一因として、横暴なふるまいがあげられます。暗殺は褒められたものではないですが、職場環境改善という狙いは感じられます。

“長州藩出身・スパイ認定者”は、近藤一派と思想的な部分で一致せず、不満を抱いていたのでしょう。

事前に芽を摘むために、粛清されたわけです。

近藤勇としても、ノリノリで実行するわけではありません。権限を自分へ集中させ、隊内を引き締めるための必要悪です。

彼は、フィクションで強調されるような兄貴肌だけの人物でもなく、なかなか政治力のある人物でした。

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