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【木戸孝允(桂小五郎)】
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一時は長州藩を見限るが 高杉晋作の台頭で
実際に黒船を見た孝允の印象はこうでした。
『これからは海外で学ばないとダメじゃね?』
そして思うが早いか、早速「留学したいんですけど」と申し出ます。
が、開国するか否かその他もろもろでバタバタしていた幕閣以下はそれどころではありません。
そう簡単に許可が下りるはずもなく、仕方がないので孝允は西洋の学問に通じている人物を探し出し、造船術や西洋の兵法、英語など多方面の勉強を始めました。よくそう何人も先生が見つかったものです。
こうしたアグレッシブな姿勢はやがて藩にも認められ、30歳ごろには藩の中枢で意見を言える立場になっていました。
長州というと「外国ブッコロ!」なイメージが強いですが、西洋の知識を持っていた孝允や高杉晋作は違います。
「いやいや今の俺らじゃ無理でしょ。皆落ち着きなさいよ」と言っています。
しかし、前者の声がデカかったので結局は攘夷運動という名の因縁付けが行われた、見事返り討ちにあうという誰も得しない状況に陥りました。
しかも長州藩は、朝廷とも幕府とも仲違いして征伐軍を向けられるという憂き目を見ます。
第一次長州征伐の頃ですね。
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孝允はその頃「もうダメだこいつら」と諦めモードに入っていたようで、藩を離れて潜伏生活をしています。
そこで突如として台頭してきたのが高杉晋作でした。
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「だから攘夷なんぞやるだけムダって言っただろうがこのアホ共!」
ということで藩の中枢をひっくり返すと、木戸孝允も返り咲いて薩長同盟を結んだり、第二次長州征伐では藩の去就を預かる一角として活躍します。
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若い後輩たちをホイホイ訪ねて歩く
こんな感じでバタバタしながら明治政府へも入っていくのですが、バリバリ働いてた割に「身分の低い後輩の家にもいきなりお宅訪問していた」なんてエピソードも残っているのが面白いところです。
しかも仲が良かった人数名というのではなく、本当にどんな相手でも尋ねていくので、あらゆる意味で相手が困惑していたとか。
中には「うちは滅茶苦茶狭くて客間もないのに、いきなり木戸さんが来たので布団を庭に放り出してから上がってもらった」なんて人もいるほどです。
また、あるときは訪ねた先の家人が病気だと知るとすぐさま医者を紹介したりして、世話焼きな一面も……。
真意は不明ながら、おそらくは人材探しと若者の実情把握の二つを兼ねていたのでしょう。
当人も、もともと身分が低く、藩主に見出してもらっただけに「どこにどんなヤツがいるかわからんし、若いのに会っておいて損はない」と考えていたのかもしれません。
でも、この人岩倉使節団の一員でヨーロッパに出かけた時期もあったのに、どうやってそんな時間を作ってたんでしょうねえ。
デキる人は時間の使い方からして違うということでしょうか。うっ耳が痛い。
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なお、木戸孝允には、彼の生活を支えた奥様がおります。
彼女・木戸松子も幕末ファンには知られた存在ですので、よろしければ以下の記事をご覧ください。
木戸と一緒に好きになってしまう魅力がありますよ。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
木戸孝允/wikipedia