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【川口雪篷】
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誠実な親友・川口雪篷
川口と西郷は、流刑人同士として出会い、たちまち意気投合しました。
漢詩と書の名人。
そして陽明学をおさめた川口。
西郷も陽明学を好んでおりました。
一方、江戸時代は、儒教でも「朱子学」が重視されておりました。
これは薩摩藩や会津藩でもそうです。
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そんな中で、敢えて陽明学を学ぶ人は、吉田松陰はじめ「知行合一」(知識と行為は一体であるべき)という思想に心ひかれる者が多い。
陽明学は幕府体制、封建主義の倒壊にも結びつきかねない部分がありますので、江戸時代はあまり推奨されなかったのです。
なぜ川口と西郷は意気投合したのか?
ヒントは、こうした思想背景があるかもしれませんね。
教育、思想、そして友。
西郷は、流刑先で人生の深淵に触れた可能性が高いのです。
川口は、流刑からの赦免後、西郷の友人となり、西郷家に寄寓します。
西南戦争が勃発し、西郷家から男手がなくなると、西郷の妻・糸が気丈に守ることになりました。
そんなとき川口は、唯一の男手として、西郷家を支え続けたのです。
白髪頭の老人となっていた川口は、西郷家をありとあらゆる困難から守るため、全力を尽くしました。
彼は西郷家の精神的支柱であり、脚を失った西郷菊次郎のために、義足の手配をした、と伝わります。
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そして明治23年(1890)、死去。
享年73。
西郷隆盛の死から遅れること、13年でした。
彼は書家としても知られておりました。
最も有名な作品が、南洲墓地にある西郷隆盛の墓碑銘でしょう。
川口雪篷は、今も西郷隆盛に寄り添うかのように、西郷家の墓地に埋葬されています。
明治奄美の教育熱、その光と影
明治時代初期から中期にかけ、日本では全国で「私塾」ができ、ちょっとしたブームが興ります。
明治政府が整備する教育機関だけではなく、教育に熱意をもった人々が新たな人材育成のため、私財や人生を投じたのです。
そしてそれらは現在に至るまで、一部が残っています。
・女子英学塾→津田塾大学
・私塾立命館→立命館大学
・順天堂塾→順天中学校・高等学校
・二松學舍→二松學舍大学
・成蹊園→成蹊大学
私立大学に「塾」がつく名称が多いのは、こうした由来のためなのです。
本土から遠く離れた奄美大島にも、こうした「私塾」が出来ました。
南洲塾
重野塾
内田塾
漢学塾
園田英語塾
国漢塾
育俊塾
民直塾
蘇泉塾
安田塾
喜界塾
これだけではなく、名も無き私塾が多くあったという、明治時代の奄美でした。
明治政府も教育改革を進めていたものの、地域によって差がありました。
維新の勝ち組である薩長のお膝元では早く進むものの、負け組の佐幕藩は遅滞することもしばしば。
だからこそ私塾が育った一面があり、奄美地域もまた教育改革から取り残されていた地域でした。
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ただし……これが必ずしもよかったとは言えない一面もありまして。
教育熱が過熱した親たちは、田畑財産を売り払ってでも我が子を私塾に通わせたい、願わくば本土の名門教育機関にまで行かせたい、と願いました。
しかし、高等教育を受けても、地元にはその学識を生かすことができる職場や機会はありません。
優れた教育を受けた若者たちは、本土へと流出してしまい、奄美地域では経済が疲弊してしまったのです。
親たちが、ただでさえ貧しい暮らしをさらに貧しくしてまで、我が子に教育を受けさせたいと願う気持ち。
そしてその結果、我が子は島に戻ることなく、経済が疲弊するというパラドックス。
まるで血を流して、己を犠牲にしてまで教育を受けさせる奄美の人々には、批判すら集まることがありました。
★
こうした問題は、過去のことでしょうか?
実は、現代の地方大学においてもこのような問題を抱えています。
せっかく地方に、経済的負担をしてまで専門的な教育機関を作っても、就職口がない。
ゆえに育て上げた若者が卒業後に大都市圏へ流れ込んでしまう。彼らが地元を豊かにすることはない。
そんな問題は、明治期の奄美だけではなく、現在進行形で日本が抱えているものではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
家近良樹『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
箕輪優『近世・奄美流人の研究』(→amazon)
桐野作人/則村一/卯月かいな『村田新八 (歴史新書)』(→amazon)