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【徳川家定】
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ハリスがみた家定
安政4年(1857年)10月21日、徳川家定は、米国総領事タウンゼント・ハリスと江戸城で対面しました。
アメリカ側に考慮したマナーを採用し、靴を履いたままでもよく、座らず立礼でも許可、椅子も用意する――相手の風習を理解し、交渉の場での柔軟性を見せています。
実は、事前に反面教師にできる事件がありました。
隣国の清では、イギリスと【三跪九叩頭の礼】で揉めているのです。
皇帝の前で、手を地面につけたうえで、額を地面に打ち付ける礼を9度繰り返す。
1793年(乾隆58年)、初のイギリス訪中使節団団長であるジョージ・マカートニーは、乾隆帝との面会でこの礼を要求され断りました。
そして、その後も同じやりとりが繰り返され、ついには半世紀もしないうちに【阿片戦争】が勃発、清は大敗を喫します。
日本にも衝撃をもって受け止められていて、対処法として学んだのでしょう。
無駄な儀礼を相手に求めては、危険なだけである、と。
幕府と家定は、当時の海外列強への意識である「夷狄」を寛大に迎えつつ、諸大名への権威を示すという難しい綱渡りに挑んだのです。
こうして設定された謁見の場で、ハリスが見た家定は、首をそらしながら足を踏み鳴らしていました。
と、このことがよく強調されますが、ハリスは同時にこうも記しています。
「家定はよく聞こえる、気持ちの良い、しっかりした声を発した」
幕末に来日した外交官は、日本人男性の容姿や声音を褒めることは多くありません。
ハリスの証言からは、そこまで暗愚とは感じていないと思えるのです。
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松平春嶽の酷評は適切なのか?
徳川家定の評価を落とした一因として【将軍継嗣問題】があります。
家定は成人しているのに、子ができない。そこで政治的に大混乱に陥っている中、次の将軍をめぐる勢力闘争が幕を開けます。
ここではその経緯よりも、家定の評価を中心に辿ってゆきましょう。
まずは以下の党派を頭に入れた上で
【一橋派】
徳川斉昭の子・一橋慶喜を次期将軍にしたい。徳川斉昭、松平春嶽、徳川慶勝ら
【南紀派】
紀州藩から徳川慶福(のちの家茂)を次期将軍にしたい。積極的に動くというよりも、アンチ一橋で結束。徳川斉昭一派だけは上に立てたくない
同時に松平春嶽の家定評を考えてみましょう。
「凡庸中の尤も下等なり」
平凡の中でも最下等と貶しているのですが、なぜ、春嶽はそう思ったのか?
その後は松平春嶽を老中に据える案がありましたが、家定が反対して、井伊直弼に決定したとされます。
一橋派は、この一件を家柄や格式を重視した上での決定だと批判しました。
果たしてそれは妥当なのかどうか。老中になれなかった松平春嶽による家定評は、政治のもつれから極めて辛くなったとも考えられるのです。
松平春嶽は幕末の賢侯代表格であり、その彼が言うのだからもっともらしく聞こえますが、家定については恨みがあり、バイアスがかかってしまう。
実際に春嶽は、人物評の際に自分の目が曇っていることを反省したこともあります。
彼が熱烈に推した徳川慶喜について、
徳川斉昭の親バカぶりに騙された
と語っているのです。春嶽は聡明でありながら、流されやすい一面もあったのでしょう。
こうして考えてみると、家定の評価はまたも揺れ動く。
春嶽が恨みを募らせるほどに、家定は幕閣人事に口を出す権限があった。
将軍ならば当然のようで、「木偶人」(でくのぼう・人形のような人のこと)とまでされた人物とは思えない動き方でしょう。
数々のフィクションでは井伊直弼はとかく強面に描かれます。
しかし、井伊直弼は強権一本槍の政治家ではありません。
柔軟性があり、現実的。ただ、やり方が強引に思えた――その背景に、井伊直政以来の将軍に尽くす意思があったとすれば、直弼を登用した家定の評価もまた変わってきませんか。
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【将軍継嗣問題】において、慶福を世継ぎと定め、一橋派を抑え込んだ決断は、井伊直弼一人でくだされたものではありません。
井伊は、彼の懐刀といえる長野主膳宛の書状に「家定が決めたことだ」と記しているのです。
家定自身は、もはや政局において猶予する時間はないとも気づいていたのでしょう。
一橋派は幕府の組織内に、自分たちの同志を送り込み、朝廷相手にも何やら動きながら、結局は迷走している。
彼らは当初こう掲げていたはずです。
「この国難においては、強いリーダーシップが必要なのであります! どうか一橋慶喜を次期将軍に、みなさまの応援が、必要です!」
それが自分たちの意見が通らないとなると、朝廷工作をはじめ、日本分裂の種をばら撒き始めた。
強い日本のために動いている!とアピールしつつ、結局、国内の団結にヒビを入れたのが一橋派の動きです。
家定はそんな政局を立て直すべく、忠臣・井伊直弼とともに奮闘していた。
しかし、元来病弱な身体では、その重責に耐えられる余力はなかったのでしょう。
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