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【徳川家定】
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篤姫の輿入れ
安政3年(1856年)、右大臣・近衛忠煕の養女である三人目の正室が輿入れしてきます。
薩摩藩主島津家御一門生まれの篤姫です。
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この輿入れは政治工作ありきのものとされますが、島津家にとって将軍家との姻戚関係は誇りでもありました。
島津家は明治維新で関ヶ原以来の恨みを晴らしたなどと言われますが、当時は将軍家との距離の近さを誇っていたのです。
11代・家斉は一橋家出身から跡を継いだ将軍で、就任前に娶った正室は、薩摩藩島津家出身の広大院。
徳川将軍の姻戚となったことは、島津家の栄誉となりました。この広大院という前例が、島津出身の御台所を送り込む根拠とできたのです。
京都の朝廷と近い距離を誇っていた、長州藩の毛利家とは異なります。
家定の側室としては、既にお志賀がいました。
もっとも彼女はかなり歳上で、家定にとってはしっかりものの母や姉のような存在感だったのかもしれません。
お志賀は、荒唐無稽なゴシップ種としての側面が強調され、子もいませんでした。
京都から来たこれまでの姫君と異なり、篤姫は身体壮健でした。
それでも家定自身が病弱では心もとないものがあり、
次の将軍は誰か?
と、政治工作が激化してゆくことになります。
黒船来航という未曾有の危機を迎え、一致団結せねばならない時に政治抗争へ発展してしまう――全ては家定の病弱さが原因と言えるでしょう。
そしてそのことが、家定という人物を考える上でも重要かもしれません。
江戸っ子までもが、風刺画や落首で将軍がらみのスキャンダルを面白おかしく楽しんでしまう状況。
あの弱い将軍ではどうにもならないと、大名家までもが噂を流す。
その発信源には、あのトラブルメーカーである徳川斉昭までいたのでした。
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家定は暗愚なのか? それとも……
当時の証言からすると、家定は首を振り、顔が時々引き攣ることがありました。
そのことに劣等感を抱き、男女の房事も難しかったとか。
趣味はお菓子作りで、サツマイモやカボチャを煮込み、饅頭やカステラを作っていたとのこと。フィクションでもお菓子を作る家定像は定番となりつつあります。
ただし、これは家定一人の問題でもなく、祖父である徳川家斉のあたりから、将軍自ら政務を執ることが減少したという回想もあります。
徳川将軍だけの話でもなく、近世の君主とは閣僚と協力して政務を進めてゆくものでした。
では、家定は無能だったのか?
明治になってから、小姓経験者の複数名が以下のように証言しています。
「外交問題について、歴代将軍で最も考えていた方だ」
「そもそも暗愚であったら、多忙な将軍職など務まるまい」
「賢侯と呼ばれる大名とまではいかずとも、そのあたりの国持大名よりよほど優れた人であった」
幕府の崩壊後も、このように家定の器量を認める人物はいました。
冒頭で示した『篤姫』や『大奥』の家定は、こうした証言を元にしていると考えれば説明がつくのです。
幕府の対応も決して無為無策ではなく、阿部正弘を中心にスムーズな対応をしていて、例えば、岩瀬忠震、川路聖謨、小栗忠順ら優秀な幕臣たちは、列強の外交官を相手に成熟した対応を取っています。
問題は、家定がどの程度政務に関わったのか?という点でしょう。
家定は政務の「蚊帳の外」だった?
家慶の死後、将軍になった徳川家定は無能で、廃人同然だった――そのため阿部正弘に政務を任せきりにしていた。
フィクションなどではそう描かれがちですが、実際はどうだったのか?
『大奥』では、家定と阿部正弘の関係性がクローズアップされています。二人で菓子を作り、阿部がこの上様を守ると決意を固める場面もある。
つまり、家定が政務を投げっぱなしにしたわけではない。阿部が主導すると自ら決意を固めていた。そうみなせる描写です。
男女逆転SFとはいえ、こうした描写は史実を基にしています。
阿部正弘の死後、井伊直弼が書き記した書状にはこうあるのです。
家定は、能狂言に現実逃避した父・家慶よりも、旗本の文武武芸もよく上覧しており、忙しい将軍としての責務に積極的であった。資質において問題はなかったのだ。
ただ、時代が悪い。黒船来航に直面し、阿部正弘はこの非常時には自分に政務を任せるようにと家定に懇願した。しかし、外国勢力は一向に収まらない。
嘉永7年(1854年)には、再度ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日してしまう。
こうして幕府は【日米和親条約】に調印した。困り果てた阿部は、家定について嘘をついたのだ。万事うまくいっていると。
安政4年(1857年)、阿部の死後に家定はこのことに直面してしまった。
そして憤り、嘆き、以後は政治を行うと幕閣に告げた。ゆえに後任者である井伊直弼は、家定と万事相談して決めることにしたのだ、と。
つまり、家定は意図的に政治に関わることができないようにされていたということです。
能力が問題ではありません。
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