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【庚午事変(稲田騒動)】
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ブチ切れた蜂須賀側が稲田家を焼き討ち 死者17名
これが稲田家には納得できず、蜂須賀家に待遇改善を訴えました。
実際に働いたのは稲田家なので至極当然な言い分ではありますが、明治政府から見れば、稲田家の分も含めて蜂須賀家の功績になるから仕方ありません。
訴えても改善が見込めないため、稲田家は洲本を中心とした自分たちの領地を中心にして、
「稲田家を独立した藩にしよう」
と考え、明治政府にも話を持ちかけます。
稲田家のほうでは「既に戦功があるのだから、すんなり通るだろう」と思っていたようで……いや、それはフラグかと……。
これを聞いた蜂須賀家の家臣の一部がブチ切れました。
「あいつら、臣下のくせに普段からエラそうだし、今度は独立して殿と同じ身分になりたいだなんて、どこまでワガママなんだよ!」
そして稲田家やその家臣の屋敷を焼き討ちするという暴挙を働き、稲田家の被害は自決を含めて死者17人、重軽傷20人、家屋の焼失が25軒という、割とシャレにならない状態になります。
稲田家のほうでは「これに抵抗したら士族になれない」と考え、無抵抗だったというのですから、どっちもどっちというかなんというか……。
この一連の騒動を【稲田騒動】や【庚午事変】と呼びます。
その後、稲田家は北海道へ移住 開拓に励んだ
死傷者が出ると、さすがに明治政府も看過できません。
もしも藩知事・蜂須賀茂韶が裏で手を引いていたりすれば、直ちに罷免して別の人物を入れなければならないからです。
ようやく江戸幕府を倒して新体制を作ろうというときに、こうした旧時代の遺物の処理で手間取っていては、他の地域への示しがつかないですよね。
明治政府はこの件を慎重に取り調べました。
そして、蜂須賀家の首謀者10人を切腹、その他関係した人物100人ほどが流刑・謹慎などの処分を受けます。
首謀者たちについては当初斬首刑の予定だったのが、茂韶の嘆願によって切腹になったとか。
武士の面子を保たせてくれ、というわけです。
稲田家についても「そのまま洲本にいると、またいつか問題が起きるだろう」ということで、士族の身分と引き換えに、北海道静内と色丹島への移住・開拓が命じられました。
その後の稲田家は、北海道開拓使の下で開拓に励み、地元に根づいたようです。
ゴールデンカムイ舞台 現実の北海道開拓は想像以上に過酷だった
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茂韶はオックスフォード大学に留学したり、駐フランス国特命全権公使などの要職を務めたりしていました。
喧嘩両成敗が成立し、丸く収まった……ということになりますかね。
まぁ、稲田家の初代・植元は草葉の陰で大激怒でしょうねえ。
蜂須賀家に尽くすために独立大名の座を蹴ったのに、子孫がそれを欲しがって主家といざこざを起こし、無用な死傷者を出してしまったわけです。
稲田家を特別扱いし続けた、あるいは城代という半独立状態にしてしまった蜂須賀家も悪いですが、城代でも主家に忠実だった人たちもいますし、責任の割合は6:4くらいですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
蜂須賀茂韶/wikipedia
稲田邦植/wikipedia
庚午事変/wikipedia