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【陸奥宗光】
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藩閥をこえて実力で抜擢
二年の留学から帰国の後、宗光はいよいよ外交官として働き始めました。
まずはメキシコとの間で日本初の平等条約を結びます。意外に日本とメキシコって縁が深いんですよね。
その後、衆議院議員や農商務大臣(現在の農林水産大臣+経済産業大臣みたいな仕事)を歴任。
農商務大臣をやっていた間にあの足尾銅山鉱毒事件が起きていますが、あまり積極的には動きませんでした。
宗光が当時の総理大臣・山県有朋に何か言っていれば、もう少し早く対策が取られていたかもしれません。
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外務大臣になったのは、意外にも?最晩年に当たる明治二十五年(1892年)のことでした。
ここから「カミソリ大臣」とまで呼ばれた宗光の辣腕が発揮されます。
江戸幕府がなくなってもずっとそのままだった、各国との不平等条約の改正に動き出したのです。
・領事裁判権
・関税自主権
項目は上記の2つで、相手国はイギリス・アメリカ・フランス・ドイツなど計15カ国。
宗光はこの15カ国全員に不平等条約の改正を認めさせた功績でもって子爵の位を与えられ、教科書と歴史に名を残しました。
今際の際まで「あのバカタレどもが!」
その後も日清戦争の開始と終結(下関条約締結)にも大きく関わり、特に開始時はロシアやイギリスへ「口出ししないで中立でいてくれますよね^^」という約束を取り付けるなど活躍します。
しかし、彼が外交の最前線で働けたのはここまで。
いつの日からか肺結核を患っていたため、宗光は職を辞して療養生活へ入らざるをえなくなります。ただ……。
国内の別荘はともかくハワイまで行ってるのはどうなのよ?
やっぱりツッコミたくなってきます。
どう考えても長旅な海外より、国内で養生したほうがいい気がするんですが。まぁ、こればっかりはその人次第ですね。
当初、兵庫で療養していたら、枕元で下関条約へのイチャモン(ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉)についての相談をされたらしいので、イヤになって遠くへ行ったんでしょうか。
病床での閣議と長距離移動、雑誌発刊のどれが堪えたのかはわかりませんが、外務大臣を辞職した翌年に彼は亡くなります。
享年53。
まだまだ活躍できたはずの年齢でした。
かつてキレて政府を出て行った原因である藩閥政治はまだ改善されておらず、今際の際まで「あのバカタレどもが!」(超訳)と嘆いていたそうです。
宗光と同様、藩閥をくだらないものと考えていた西園寺公望も「陸奥があの世に行く代わりに、藩閥のアホどもが(ピー)すれば良かったのに」(超訳)というようなことを言っています。
いろいろツッコミどころの多い人ではあります。
しかし、国家の大事というときに出身地でガタガタ喚くより、はるかに必要な人物であったことは間違いないでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
陸奥宗光/wikipedia