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【西南戦争】
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精神の荒廃と政治への不満の中で
こうして苦しみながらも勝利した明治維新。西郷隆盛が満足感と安心感を得られたか?というと、そうではありません。
むしろ精神は荒廃してゆくのです。
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そんな不安定な精神のまま迎えた対立が明治政府内での「征韓論」であり、そしてそれが「明治六年の政変」へと繋がっていくのでした。
西郷の心身不調は、周囲から見ても異常なほど。
朝鮮半島に身一つで出向き、自ら殺害されることで、朝鮮半島と戦争をしたがっている――ように見えるときもありました。
この辺りのエピソードにも西郷特有の性格が見えてしまいます。
「江戸城無血開城」でもあったような、身一つで相手の懐に飛び込む――よくいえば豪胆、悪くいえばギャンブラー的な気質。
こうした危うい状況の中、真偽すらハッキリしない暗殺疑惑等を経て、西南戦争は勃発してしまうのです。
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本当の生き地獄がそこにあった
では、西南戦争が起こった結果、殺された兵隊の遺体はどう処理されたか?
人々の暮らしはどうなったか?
凄惨な過去に蓋をせず、当時の記録を振り返ってみたいと思います。
死屍累々
諸外国からの銃が導入されるなど。
激しい戦争が起き、当然ながら、周辺は死屍累々となりました。
そこには「官軍、薩軍ともに死体損壊をした」という記録が残されております。
試し切りの跡があるもの。
追い詰められて絶望していたせいか、捕虜をバラバラにして木に縛り付け放置したもの。
捕虜殺害の禁止は徹底されていたはずですが、薩軍はそんなことも言っていられませんでした。
当時の銃弾は鉛製です。
鉛製の弾丸は摘出できなければ、手足ごと切断するほかありません。戦場には切り落とされた四肢がそこら中に転がっています。
内臓がはみ出した死体。
脳みそがこぼれた死体。
……見るに堪えないほど無残な死体があふれ、埋葬すら間に合わず、海に遺棄されるものも大量にありました。
薩軍は敵への憎しみのあまり、官軍警視隊の埋葬を一時禁止したこともあるほどです。
放置された遺体は?
例えば動物の餌食となるなり、見るに堪えかねるほど無残な有様と化していきました。
人肉食
映画『野火』では、太平洋戦争下での人肉食を描いたことで話題をさらいました。
戦場における人肉食は、戊辰戦争や西南戦争でも記録が残されています。
田原坂の戦いで苦戦した官軍では、敵兵の死体を斬りつけ、肉を口に運ぼうとしているものもいたとか……。
あるいは牛肉があったと称して、人肉を運んでくる者がいたとか……。
恐ろしいほどの戦場の狂気。
信じられない話かもしれませんが、残念ながら記録にも残されていることです。
同じような人肉食の話は、戊辰戦争のときにもありました。
犠牲となった子供たち
会津戦争で屈指の悲劇といえば、白虎隊の集団自刃が必ず挙げられます。二本松少年隊の悲劇も知られております。
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西南戦争でも、幼い少年たちが従軍しました。
西郷隆盛の長男である菊次郎と甥・市原宗介もそうした者にあたります。
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菊次郎は脚の切断という悲運に見舞われましたが、それでも他の少年よりは恵まれていたかもしれません。
兄弟そろって命を落とすような少年兵も、西南戦争ではおりました。
南洲神社の墓地(→link)には、「少年烈士」の墓があります。ここに葬られている少年は14歳です。
犠牲となったのは、こうした少年兵だけではありません。
戦地となった場所では学校が閉鎖され、子どもたちの心も荒れ果てました。当時、石をぶつけ合い暴れる目撃談が残されています。
女性たちも平然と遺体を見るようになった、と記録されています。人の心はこれほどまでに荒廃しきるものなのか……と、当時の記録者は書き残しております。
動員、虐殺、暴行される民衆
少年たちの平穏な日常すら、一変させてしまった西南戦争。
大人となれば、さらに過酷な運命が待ち受けておりました。
軍夫
戦争というものは、兵士だけでは成立しません。
食料や弾薬を運搬する軍夫が必要となって来ます。映像化作品では省かれることも多い存在です。
薩軍、官軍共にこうした人員を【強制的に徴募】しました。
人員が不足するあまり、数あわせのために老人、病人、女性すら動員されることもありました。
一応は給与が出るとはいえ、支払われたとは限らなかったようです。
最初のうちこそ定められていた基準も、時間経過とともに守られることなく、無給で酷使されることもあったわけです。
たとえ給与が出たとしても、死傷してしまってはどうしようもありません。
軍夫は兵士より一段下として見られ、扱いがよいとは言えないものでした。
一方、働き手が奪われた地域では、農作業の停滞を招くことにもなります。
軍夫供出を拒む地域、くじ引きで決める地域もありました。
徴募すら、戦争長期化にかけてどんどん困難となっていったのです。
アウトローである博徒が軍夫となり、近隣住民に危害を加えることもありました。いろいろな面において、大迷惑をかけた話なのです。
女性の動員
徴募されたのは男性だけではありません。
女性も、食料調理のために徴募されることがありました。
食料・物資徴発
西郷隆盛の軍勢は、武器弾薬や食糧不足のまま挙兵した一面があります。
官軍も物資が豊富とは言えません。
ゆえに両軍ともに、地域から食料や物資を徴発しました。
戦場となった地域には、焦げ付いた飯が投げ捨てられていたという目撃談もあります。本来は地域住民が食べるはずのものが、時に無残な扱いをされたのですね。
しかも、です。
農作業の停滞と食料の徴発は、戦後まで食糧難として影響を与えることになります。
こうした徴発の際、官軍は料金を支払いましたが、ロクな準備をしなかった薩軍は支払う気なんてありません。
要するに、掠奪したわけです。
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