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【三島通庸】
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鬼県令 「ワッパ騒動」を潰す
通庸の剛腕に惚れ込んだのは、大久保利通でした。
県令としてのキャリアも、その手腕を見込まれたのでしょう。
しかし、事はそう単純な話でもありません。
当時、新政府を仕切っている二大勢力は、薩摩の大久保と長州の伊藤博文でした。
通庸は精忠組以来の大久保派に所属。
伊藤派としては、大久保派の通庸を、中央政界から遠ざけたかったのです。
明治政府の人材活用は、適材適所という観点だけでなく、派閥間のパワーバランスも大きな影響を及ぼしておりました。
そんな通庸の、初県令の赴任地は、酒田県令(後の鶴岡県・現在の山形県)でした。
当時、酒田は【ワッパ騒動】の真っ盛り。
江戸時代でいえば農民一揆であり、住民たちの武装蜂起や抗議行動が頻発していたのです。
酒田のある庄内地方は、江戸時代は庄内藩の領土でした。
戊辰戦争の戦地ともなりましたが、西郷隆盛が寛大な処置を行ったため、酒田県は庄内藩士族がそのまま重用されていました。
そのため、新政府とは異なる独自路線の歩もうとする動きもあり、そうした要素が「ワッパ騒動」に繋がったのです。
通庸は、西郷とは真逆のスタンスです。
幕末の頃は同志であったとはいえ、既に大久保に近い彼は西郷を崇拝などしておりません。
「西郷と、この俺は違うのだ、甘ゆっな」とばかりにワッパ騒動を強引に鎮圧します。
通庸の県令としての功績はそれなりにありますが、どうしても剛腕のワッパ騒動鎮圧ばかりが強調されます。
同地方にとっては心優しき西郷の後、真逆の薩摩人が来たのですから、そりゃあインパクトも強烈だったことでしょう。
山形時代は土木県令
明治9年(1876年)。
山形・鶴岡・置賜の3県が合併され、山形県となりました。
そこで通庸は鶴岡県令から引き続いて山形県令に就任します。
現在に至るまで山形には瀟洒な洋館が残されています。通庸が洋風建築を好んだのです。
さらには山形県の赤い宝石ことサクランボの栽培も通庸が推奨したものでした。
当時、西洋からサクラの木が導入された際、花が美しくないことに日本人が失望し、栽培を辞めてしまうケースが多い最中、通庸は花でなく【実】に目を付け、寒冷な山形こそ適していると判断したのです。
慧眼でした。単なる武芸一辺倒のタイプではなかったんですね。
通庸が課題として痛感したのが、物流の整備です。
江戸時代の前、酒田港は東日本を代表する港であり、ずっと賑わってきました。
が、明治以降、その海運が停滞してしまったのです。
そこで三島の行ったのが大規模な道路工事。
特に福島県に通ずる栗子峠の隧道(トンネル)開削は、今なお名高い功績として伝わっており、大規模な土木工事を断行する通庸の姿を見て、いつしか人は「土木県令」と呼ぶようになります。
山形県令時代の功績は、賞賛に値するものばかり。
ではなぜ“鬼”と呼ばれたのか?
実は、次の福島県令時代にその原因があります。
自由民権運動が盛んな福島県に赴任
1882年(明治15年)、通庸は次の赴任地である福島県に赴きました。
戊辰戦争の爪痕が残り、旧会津藩を擁する福島県。
薩摩出身の県令が赴任した時点で、県民にとっては理不尽な振る舞いに対し怒りを抱いても致し方ないでしょう。
当時の福島県は、中央政府から目を付けられる要素がありました。
【自由民権運動】です。
旧土佐藩の高知県に次いで盛んだったのが、中通りを中心とした福島県だったのです。
そもそも「自由民権運動」はなぜ始まったか?
背景には、政府への不信と不満があります。
明治維新とは、外圧に対抗するために国の体制を作り替えるものではありましたが、その改革は、フランス革命のような人権、民主主義といった思想を伴わなかった――ゆえに、西洋から伝わった思想を知った人々は、明治維新の不備を痛感するようになります。
維新において功績を残しながら、藩閥政治から疎外された土佐出身者が、まずこの運動の担い手となりました。
また、旧三春藩士であった河野広中は、自由民権運動にめざめ、板垣らと連携しながら、福島県で熱心に活動をしておりました。
鬼の通庸が乗り込んできた背景には、このような状況があったのです。
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