三島通庸

三島通庸/wikipediaより引用

幕末・維新

会津で長州よりも嫌悪された男・三島通庸「鬼県令」は薩摩の精忠組出身だった

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マッド県令、会津三方デスロード建設

明治15年(1882年)。

福島県令として赴任した通庸が着手したのは、会津に道路を開通させることでした。

明治時代以降、政府に逆らったとされた会津地方は開発から取り残され、住民は時代の変化から取り残されていたのです。

山に囲まれ、海からも遠い会津は、まさに日本の奥地といったところ。

道路整備は急務であり、通庸は、会津から三方向に伸びる道路建設を発案します。

◆若松から南の栃木県日光市田島・今市方面(白河街道)へ向かう道

◆西の新潟県東蒲原郡阿賀町津川・新潟方面(越後街道)へ向かう道

◆北の山形県米沢市方面(米沢街道)への三方へ向かう道

アイデアとしては悪くないと思います。

ただ……いかんせん強引でした。

「会津地方六郡下の15歳から60歳までの男女を、2年にわたり月一日人夫として働かせる。それができなければ、一日につき男15銭、女10銭の人夫賃を出せ」

あまりの無茶ぶりに、会津地方の人々は困惑、そして激怒します。

治める金がない家庭からは、鍋や茶碗と言った生活用品が押収され、家が競売にかけられる始末でした。

ただでさえ薩摩に反感を抱いている会津です。

しかも自由民権運動の火もまさに燃え上がっている。

そんなところに地獄の労働を持ち込むのは、ガソリンにマッチを投げ込むかの如き危険な所業であります。

会津の自由民権運動家・佐治幸平が、この道路建設に反対運動を行ったところ、逮捕されてしまいました。

佐治幸平/wikipediaより引用

かくして、彼の逮捕に怒った人々が蜂起して、喜多方警察署を襲撃(喜多方事件)、弾圧の手は福島だけでなく東京へと広まり、実に2,000名もの逮捕者が出てしまうのです。

捕らえられた人々には容赦のない拷問が加えられ、北海道の監獄に送り込まれる者も多数いました。

当時、地の果てと呼ばれた北海道の監獄には、凶悪犯が揃っているとされておりましたが、中には、こうした自由民権運動に関わった活動家も含まれていたのです。

三島通庸県政のもと、福島自由党は壊滅状態にまで追い詰められました。

 


鬼の如き弾圧手段

これほど多くの逮捕者を出した時点で、通庸の所業は「鬼」と呼ばれてもおかしくありません。

実際、彼の発言を知ると、まさしく鬼そのものです。

「それがしが職にあらん限りは、火付け強盗と自由党は、絶対に頭をもたげさせぬ」

「火付け強盗と自由党は管内に1匹もおかぬ」

強面とかそういうレベルじゃありません。

この弾圧のために取った手段が、まだえげつないものでした。

通庸は、旧会津藩士族からなる「会津帝政党」という“御用政党”を結成させました。

会津戦争で辛酸をなめた士族はまだ生活もたちゆかず困窮。

そんな彼らに「恩貸授産金」というエサをちらつかせ、自分たちの味方にしたのです。

会津の人々を分断させる、あまりにえげつない策であります。

そして「会津帝政党」は、清水屋旅館に滞在中の自由民権運動家・宇田成一を強引に逮捕するという暴力事件を起こすのでした。

会津の人々同士が傷つけ合う、あまりにも悲惨な出来事。

かくして通庸の治世で、福島県・中通りの開発は進みます。

しかしその一方、苦難の末に作られた会津三方道路は輸送手段が鉄道にとって変わられ、さして意味のないものとなります。

明治17年(1884年)、通庸は少し南に下って栃木県令に就任しました。

激しい憎悪を買っていた通庸は、自由党員から暗殺されかけます(加波山事件)。

加波山事件志士の墓 (茨城県筑西市下館地区)/wikipediaより引用

事件に危機感を抱いたのでしょう。

明治20年(1887年)、皇居付近から「危険人物」を排除する事を目的とした保安条例が公布されると、警視総監として即日施行しました。

こうして通庸は、日本に芽生えつつあった自由主義、民主主義の芽を容赦なく壊滅。

明治21年(1888年)、第5代警視総監在任中のまま死去します。

享年54。

振り返ってみると、三島通庸とは、実に評価が難しい人物と言わざるを得ません。

山形県や、出身地である鹿児島県では評価されているものの、福島県や栃木県では真逆の最低評価。

とてつもなくパワフルで、手腕も卓越していたことは間違いないでしょう。

このような人物はプラスに振れても、マイナスに振れても、大きな影響を残すものです。

三島通庸は、まさしくその典型でした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
幕内満雄『評伝三島通庸―明治新政府で辣腕をふるった内務官僚』(→amazon
五代夏夫『薩摩秘話』(→amazon
『国史大辞典』

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