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【渋沢栄一】
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運命を変えた大隈邸での一夜
経済面で政府を支えるエキスパートが欲しい――。
そんな中で、郷純造(ごう じゅんぞう)という幕臣出身の人物が、明治2年(1869年)、渋沢に目をつけます。
水際だったパリでの報告書を出した男が、「静岡商法会所」をすぐさま大改革し、組織したらしい。
渋沢の優れた才知により、静岡の商業は息を吹き返した。
これを国単位でやってみたらよい。
そうなったのです。
とはいえ、渋沢にヤル気なし。すぐさま辞めようと渋々引き受けました。
出仕直後の晩秋、渋沢は築地にある大隈重信邸を訪れました。ここで両者は夜通し語り合います。
渋沢栄一は、大隈重信に向かって言いました。
「私なんかどうせ役に立ちませんし、静岡で実業界に入ります。だいたい、新政府はガタガタで、誰も何も知らない状態ではありませんか。これで新制度と言われたところで」
「きみの言うことはわかるがね、新政府はそりゃ誰も税制のことなんか知らない。ここから始めるものだから、万事未経験、当然だろう。ここから始めなきゃ!」
「慶喜公が蟄居しているのに、私ごときが出仕とは不忠です」
「きみは代々の幕臣ではないだろう。それに王政復古は、慶喜公の願いでもある。元家臣が朝廷に出仕するとなれば、誇りとなっても恥にはならんだろう」
そして、大隈からとどめの言葉が繰り出されました。
「これからの国づくりは、もう思想や立場じゃない。高天原に八百万の神が集うようなものだ!」
現代人からすればちょっとピンと来ないかもしれません。
要するにマーベルヒーロー勢揃いの『アベンジャーズ』状態だということでしょう。
一説によれば、渋沢は自分の考えた制度を取り入れることを条件としたとも。このあたりからも、渋沢の性格やポリシーが見えてきます。
福沢ほど武士としての思想はありません。
幕府を批判しながら、幕臣となる。
攘夷を志しながら、パリに魅了されて髷を切る。
そして政府に不満がありながら、出仕する。
自分のアイデアを受け入れてくれるのであれば、どこでもいい。自分のアイデアこそ、守るべきもの。
そんな性格が見えてきます。
富国か? 強兵か?
明治4年(1871年)、渋沢は制度取調御用掛、枢密権大使となります。
その課題は山積みでした。
◆貨幣制度改革
→金と銀本位制度が入り混じるものを、円・銭・厘に統一
◆銀行制度導入
→アメリカのナショナルバンク・アクト導入する「国立銀行条例」制定
◆株式会社導入マニュアル制定(『立会略則』『会社弁』)
こうした経済重視の政策は、政府に理解されにくいものでした。
というのも、軍備拡張を進めたいという思惑が強くあり、明治政府の首脳部には理解されないものがあったのです。
「富国強兵」という言葉は、明治政府の一致した政策であると言う説明がなされます。
これがそう単純なことでもなければ、一致した意見でもありません。
富国(=経済)か?
強兵(=軍事)か?
意見は常に競い合っていました。
軍事費歳出を迫る側からすれば、出し惜しみするように思える渋沢は目の上のたんこぶに他なりません。
かくして明治6年(1873年)、井上馨とともに辞表提出、大蔵省退官に至るまでには、そうした対立構造があったのです。
この対立構造は、ついに維新から10年目で【西南戦争】に至りました。
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