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【渋沢栄一】
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パリ万国博覧会を見学してきてくれない?
テロ・クーデターまで起こそうとしていた幕府に、仕える立場の幕臣になってしまう。本人も悩み、実家で農業をしようかと思ったほどであったとか。
そんな折、重大な転機が訪れます。
慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会を見学する徳川昭武のお供をしてくれないか?
幕府から、そんな依頼が舞い込んだのです。
「よし、パリだ!」
断る理由などありません。
が、我々としてはちょっとツッコミたくなりませんか?
「おいおい、攘夷思想はどこにいったのか?」
渋沢は、よく言えば好奇心旺盛であり、悪く言えば立場をコロコロ変える人間です。
幕末でも、そういう柔軟で積極的な人物は、現実を知るや攘夷から国際派へいとも容易くシフトしていきました。
その典型例と言えましょう。
渋沢は、パリに着くと、いきなり断髪を敢行します。
髷を落とした姿の写真を夫人・千代に送り、「情けなき姿」と彼女を嘆かせたほど。
これには弁解して「郷にいれば郷に従えだから」と言い訳を書き送っております。
ベルギー国王のトップセールスに驚き
渋沢はやりくりに長けていました。
片言のフランス語で銀行制度を勉強し、逗留するホテルも格下げして節約に励んだほど。
銀行、新聞、水道……社会システムの数々に、渋沢は驚きました。
一番の驚きは、ベルギー国王・レオポルド2世自ら、
「これからは鉄の時代。貴国にも是非、我が国から輸入していただければ」
とトップセールスをされたことでした。
将軍が自ら商売をするだろうか?
これからは商業の時代が来る?
士農工商が身についた渋沢からすれば、それは世界がひっくり返るような衝撃でしょう。
しかし、このレオポルド2世がのめり込んだビジネスには、今日に至るまで禍根を起こした悪例もあります。
帝国主義、植民地、グローバルビジネスは、明るい面だけではなかったのです。
コンゴ自由国では手足切断当たり前 レオポルド2世に虐待された住民達
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そして帰国した渋沢を待ち受けていたのは、崩壊した江戸幕府でした。
他の幕臣同様、徳川慶喜のいる静岡で暮らすこととなったのです。
明治政府には人材が必要なんだ! しかし……
さて、そんなわけで始まった明治政府は前途多難でありました。
江戸っ子は、こんな狂歌を残しております。
「上からは明治だなどというけれど、治明(おさまるめい)と下からは読む」
いやいや、それは負け惜しみでしょ――とは言い切れないものがあります。
岩倉遣欧使節団の留守中に、内政はガタガタ。
政治だけでも手一杯なのに、他の要素はもう追いかけられない。
農業、商業、工業、軍制改革、警察制度……数多くの改革を迫られる中、これぞ武士らしい!と乗り気で政府中枢が取り組んだのは、せいぜい軍事面あたりでしょうか。
警察制度も、薩摩藩では主流ではない川路利良が主導しました。
そんな川路のもとには、佐幕藩出身者の巡査もおりました。
例えば会津の佐川官兵衛とか。
新選組の斎藤一もその一人です。
商業は、薩長土肥ではない福井藩の由利公正に一任しておきながら、クビにするという無責任っぷり。
薩摩には商業のエキスパート・五代友厚がおりました。
しかし、彼ですら【戊辰戦争不参戦、先行不充分】という理由で登用されず、下野していたほどです
蝦夷地改め北海道は、日本一知識の豊富な松浦武四郎を起用するものの、藩閥政治とアイヌへの差別的扱いに絶望し、返上されるという始末。
そのせいで、入植者は苦しむこととなりました。
北海道の開拓団は、いわゆる戊辰戦争の負け組を中心に送られており、明治政府の成立当初は、幕臣もお払い箱という気分であったかもしれません。
これは幕臣側も同様でして、食い詰めるか、誠意をもって迎えられねば、なかなか登用されようとしません。
江戸から明治という時代の変化で、振り落とされた人材は多かったことでしょう。
しかし、明治政府も困り始めます。
人材不足は如何ともし難いく、勝海舟や榎本武揚といった幕府の中心人物ですら頼らざるを得ません。
中には福沢諭吉のように、意地でも明治政府を突っぱねた人物もおりますが、そんな登用組の中に、渋沢栄一も含まれていたのでした。
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