文化・芸術

戦国時代の御伽衆から始まった落語の歴史|江戸時代に安楽庵策伝が本格化させ

2025/06/05

日本人なら誰でも知っているし、一度は耳目に触れている。

かといってジックリ味わったことはあまりない。

それが落語ではないでしょうか。

確かに『笑点』の大喜利は子供の頃から自然と慣れ親しんでおりますし、その気になればCDやDVDで楽しむこともできる。あるいは劇場へ足を運ぶことだってそう難しいことではない。

さりとて、その一歩はなかなか踏み出さない。

「一度聞いてみて! 聞けば、落語は面白いから!」というつもりはございません。

そうではなく、素朴に興味を持ったのが落語の歴史です。

歌舞伎と並んで伝統芸能の王様的ポジションにいる落語とは、一体いつ如何なる経緯で始まり、人気を博していったのか?

「6=ろく≒らく」と「5=ご」で、6月5日は落語の日。

まずは起源へと遡ってみましょう。

 


起源は「お伽衆」秀吉が多く抱えていた

面白おかしい話や芸を見せて、権力者を笑わせる。

いわば笑いによるリラックスの効能は、洋の東西を問わずありました。

ヨーロッパの宮廷道化師/wikipediaより引用

日本では、戦国時代に御伽衆と呼ばれる人々がおりました。

彼らは諸国の噂話や、講釈話をする存在。

いわば人間ラジオのようなものです。

特に若い頃、学問に親しんでいない豊臣秀吉は、多くの御伽衆を抱えていたとされ、例えば漫画『へうげもの』でお馴染みの古田織部(古田重然)もその一人でした。

豊臣秀吉(左)と古田織部(重然)/wikipediaより引用

あるいは曽呂利新左衛門は落語の名跡にもなっています。

ちなみに「おとぎ話」という言葉が、現在のように大人が子供に語り聞かせる話という意味になったのは明治以降で、江戸時代以前は「御伽衆が貴人に聞かせる話」という意味でした。

戦乱の世が終わり江戸時代に入ると、こうした話術の専門家の役割も変わります。

各国の情勢や情報を伝えるニュースキャスターのような役割よりも、面白おかしい話を専門に話すエンターテイナーの役割を求められるようになったのです。

 


当初は明国の『笑府』などをネタにしていた

それでは、そのおもしろおかしい話の元ネタは、どこから取られたのか?

当時、存在していたユーモアやジョーク集です。

江戸時代の元和年間に成立した『醒睡笑』は、貴重なネタ元の一つ。作者の安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)は、落語家の元祖とされています。

中国から伝わった笑話集も元ネタであり、明代の末に成立した『笑府』は当時最先端のお笑い本でした。

例えば「饅頭こわい」とか「野晒し」は、明代の笑い話をまとめた『笑府』エピソードの翻案なのです。

中国の書物に接する機会のある、知識層がお笑いを担っていたわけですね。

『笑府』の「まんじゅうこわい」原本/wikipediaより引用

そして17世紀後半になると、江戸、京、大阪(難波)に、落語家の祖とも呼べる人が登場します。

彼らは街頭や寺社といった人の集まる場所で、聴衆から金銭を受け取って、おもしろおかしい笑い話を披露しました。

こうした路上で話す形態を「辻噺(つじはなし)」と呼びます。

話だけではなく、物真似等も披露しました。

このころは「落語」の原型はあっても、必ずしも話すことだけに特化していたわけでもありません。

戯作者や狂歌師として活躍する「旦那衆」が、趣味を実益にしたような状況です。

「落語中興の祖」こと烏亭焉馬(うていえんば)も、もとは大工の旦那衆でした。

焉馬は「噺の会」を立ち上げました。

定期的に笑い話の会を開いていたものの、落語の完成までにはもう一歩というところです。

 

「寄席」と「落語家」の誕生

寛政年間(18世紀末)、寄席がいよいよ誕生します。

それまで話の会と言えば、料亭や貸席を借りて不定期開催だったのが、場所を特定して入場料を徴収する商売として始まったのです。

定期的に入場料を徴収するとなると、演者も片手間で出来ません。

リピーターになった聴衆を飽きさせないためにも、演目に工夫をこらす必要が生じてきます。

江戸では初代・三笑亭可楽。

上方では初代・桂文治。

彼らを嚆矢として、江戸にも上方にも、より洗練された落語家たちが次々と誕生するのです。

かくして落語は一段とレベルがあがり、寄席は次から次へと拡大。庶民の娯楽として親しまれるようになりました。

しかし、水を差すように水野忠邦・天保の改革が始まります。

水野忠邦/wikipediaより引用

庶民の娯楽を厳しく制限したこの政策は、寄席もその標的としており、天保13年(1842年)には「寄席制限令」が発布されています。

さすがに庶民とて、これには反発を隠しませんでした。

寄席禁止令は2年半で撤廃。

勢いを取り戻した寄席は、溜まったエネルギーを解放するかのように再び隆盛を迎えます。

 


明治維新を迎えて落語も変化させたのが三遊亭圓朝

時代はやがて、幕末という激動期を迎えます。

暗殺やテロが横行し、さらには上野戦争や戊辰戦争も勃発。そんな不安定な世相を吹き飛ばしたい気持ちもあったのでしょうか。

都市部の庶民は、落語を楽しんでいました。

しかし、明治になると状況は一転。

新政府は落語禁止令を発布したのです。

ただし、厳密に守られたわけでもなかったようで、明治維新という大変革の中、落語だけが立ち止まることはできません。

この激動の時期に活躍した江戸の初代・三遊亭圓朝は、落語のスタイルを変えました。

初代・三遊亭圓朝/wikipediaより引用

それまでは「芝居噺」という、鳴り物や大道具、衣装引き抜きといった要素のある、歌舞伎を真似たものが主流でした。

圓朝はそれを「素噺」、現在のように扇一本・舌一枚のみで演じるものに切り替えたのです。

やがてこの「素噺」が主流となり、「芝居噺」は廃れてゆきます。

明治維新の結果、江戸からは幕臣とその家族が減り、代わりに新政府関連の薩長出身者が増えました。

そうなると、落語の人気ジャンルも変わります。

しっとりとした人情ものよりも、わかりやすい大げさなもの、駄洒落が受けるようになったのです。

明治10年代には「珍芸四天王」という、本来の話術よりも、立ち上がって奇妙なジェスチャーをする落語家が受けました。

旧来の演目の見直しも進み、より明るく、滑稽味の強いものへと変更されてゆきます。並行して、新作落語も増加してゆきました。

 

東京でも上方でも熾烈な派閥争いが起きた

明治10年代にもなりますと、東京でも上方でも、落語の派閥が出来てきます。

東京

柳派:初代談洲楼燕枝が中心 / 洗練され、洒脱な芸風

三遊派:初代三遊亭圓朝が中心 / 派手で明るい作風

上方

桂派:初代桂文枝中心

三友派:初代月亭文都、初代笑福亭福松、二代目桂文圓治、三代目笑福亭松鶴らが結成

こうした派閥争いは、互いの切磋琢磨に繋がりました。

分裂や争いはあったものの、結果的に優れた芸を目指すモチベーションにも繋がりました。

 

「大阪落語を滅ぼしたのは、この私です」

時代が大正を迎えると、落語は陰りが見えるようになります。

東京では、さしもの桂派と三友派も、次第に飽きられてきました。

そこで新味を持たせるため、落語家も東西交流するようになりったのです。交通機関も発達したため、行き来が楽になったということもあるでしょう。

すると上方お笑い界に、大きな変化が起こります。

桂派は、中心人物であった桂文枝が亡くなると衰退し、三友派に吸収され消滅しました。

その一方で、岡田政太郎率いる「反対派」が台頭してきました。「反対派」は、落語以外の「色物」(落語以外の芸能)を重視する一派です。

三友派も一時の勢いを失ってゆく中、なんとかして反対派の攻勢に対抗する状況でした。

そこへ現れたのが「吉本興業」です。

天満の寄席「第二文藝館」から始まった吉本夫妻の寄席は、急速に発展し、反対派と手を組みます。

吉本興業の始まりとなった第二文芸館/wikipediaより引用

そして彼らは、岡田政太郎の死後、反対派を引き継ぎ、勢いは更に増して三友派もついに吸収。

上方の芸能界は、「吉本花月派」の一人勝ち状態となるのです。しかし……。

時代が下ると吉本興業は、落語を軽視するようになります。

“後家殺し”と呼ばれ絶大な人気を誇った初代桂春団治の死後、彼らは漫才に傾倒。

それだけでなく上方落語を保護する態度を一切取りませんでした。

「大阪落語を滅ぼしたのは、この私です」

後年、創業者・吉本せいの弟で、吉本興業を率いた林正之助は、そう語っています。

 

速記本、レコード、ラジオの流行

東京では、大正12年(1923年)の関東大震災により、壊滅的な打撃を受けました。

多くの落語家が犠牲になり、寄席も焼失。そのため、当分の間興行が行われなくなってしまいます。

吉本興業ではこの時期、熱心に東京から落語家を招き、復興に貢献しました。

かつての浅草の寄席/wikipediaより引用

震災が江戸の風情を破壊した一方、新たな技術が世の中に変化をもたらします。

速記本、レコード、ラジオです。

「速記本」とは、落語や講談を聞き取って速記したもの。速記本やレコードは、寄席に足を運ばなくても落語が楽しめるものとして、人気を博しました。

ラジオに関しては、当初の興行側は、いたく警戒心を抱いていました。

タダで落語が聞けるのならば、客はわざわざ寄席まで足を運ばない。そう危惧したのです。

前述と時代が前後しますが、昭和5年(1930年)には、桂春団治が所属先の吉本興業に無断でラジオに出演し、業界内では大きな騒動となるのです。

しかし、結果は出演OKで一件落着。

客を減らすどころか宣伝効果があるとみなされて、和解に至るのでした。

初代・桂春団治/wikipediaより引用

 

戦争の影響で遊郭などのネタが自粛され「はなし塚」が作られる

明治大正を経て昭和へ。

落語の人気はますます高まったものの、強烈なブレーキがかかることになります。

昭和15年(1940年)、大政翼賛会発足の際、「日本芸能文化連盟」が設立されました。これをキッカケとして、落語も時勢をかんがみて再検討する動きが出てきたのです。

要するに自粛です。

昭和16年(1941年)、浅草本法寺(→link)に「はなし塚」が建立されました。

時勢にそぐわない「情痴、遊郭、不義密通」等をテーマとした53演目が禁止となり、それら演目の墓として作られたのです。

こうなってしまってはツマラナクなるのは必定。当局の禁止を待つまでもなく、落語は萎縮してしまいます。

落語家たちも戦争とは無縁ではいられません。

慰問隊や兵士として、戦線に向かうようになり、アメリカ軍の空襲は寄席を焼き尽くし、落語家の晴れ舞台をも奪います。

戦争は人々から笑顔を奪い、笑いをも焼き尽くしました。

 

戦後:ラジオ落語とテレビ大喜利の時代へ

戦後――。

辺り一面が焼け野原になり、食べる物にもこと欠き、親を失った孤児たちがうろついているような状況。

そんな最中でも、人々は焼け残った寄席に、吸い寄せられるように向かいました。

なにせ昭和20年(1945年)8月15日の終戦から一ヶ月後には、焼け残った寄席に人々が溢れかえっていたほどです。

昭和21年(1946年)には「はなし塚」に葬られた演目の復活式も行われました。

遊女も間男も、落語の演目の中に蘇り、戦時中に統合された落語団体も復活しました。

いよいよ本格的な復活です。

一方で、戦後人気のあった三代目・三遊亭歌笑が進駐軍のジープにはねられて亡くなるという痛ましい事故も

昭和26年(1951年)、放送法が成立しました。

ラジオ&テレビ落語の時代幕開けです。

セットもいらない。

バンド演奏も不要。

おまけに人気もある。

落語家たちはラジオ番組からしょっちゅうお呼びがかかり、懐もずいぶんとうるおいました。

ラジオをつければ落語が流れてばかりいる、そんな時代です。

一方でテレビの場合、わいのわいのと騒ぐような演目の方が人気でした。

皆さんご存じの昭和41年(1966年)放映開始された長寿番組『笑点(→link)』の大喜利コーナーが有名ですよね。

テレビ世代にとっては大喜利の方がよく知られているかもしれません。

 

落語の黄金期到来&上方落語の復活!

昭和30年代から40年にかけては落語黄金期とも呼ばれます。

愛される名人たちが出る一方、落語は変貌してゆきました。

戦後の大名人として知られる5代目古今亭志ん生/wikipediaより引用

落語といえば寄席というのは、今や昔のこと。ラジオであり、テレビであり、そして演芸ホールになってゆくわけです。

一方で、上方落語は、東京より厳しい状況であがいていました。

前述の通り、吉本興業の隆盛と反比例するように勢いを失ったのが大きいのです。

寄席も戦中に焼け落ち、戦後上方落語を復活させようにも落語家は10人程度という惨状。

戦後もベテランが相次いで亡くなり、上方落語は滅亡の危機に瀕しておりました。

そこで出てきたのが「上方落語四天王」と呼ばれる落語家たちです。

彼らの奮闘で人気も戻り、吉本興業にも落語家が所属するようになります。

当代・笑福亭仁鶴は、吉本興業を代表する売れっ子です。

彼がブレイクしたのは、ラジオパーソナリティとして若者の間で人気を集めたのがキッカケでした。同じようにラジオやテレビの司会者等、本業とは別のところで活躍する落語家も増えたのです。

2017年大河ドラマ『おんな城主直虎』で、当代・春風亭昇太さんが今川義元役を好演したことは記憶にも新しいところですね。

 

伝統的でありながら、常に新しい 変貌する落語

江戸時代から日本人を楽しませてきた落語。その変貌が著しいことは、皆さんも実感しているのではないかと思います。

落語を楽しむ環境も、変貌を迎えています。

YouTubeの落語チャンネル、スマートフォンのポッドキャストで楽しむ方もいることでしょう。

あるいはテレビドラマの『ちりとてちん』や『タイガー&ドラゴン』。

漫画の『落語天女おゆい(→link)』、『昭和元禄落語心中(→link)』。

落語をじっくりと聞いたことはなくても、テーマとした作品を楽しんでいたり、落語家の出るテレビ番組を見ていたり。日本で暮らしている以上、ドコかで必ず触れているものです。

伝統的でありながら、常に新しい――それが落語の魅力ではないでしょうか。


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【参考文献】
山本進『図説 落語の歴史 (ふくろうの本)』(→amazon

【参照サイト】
公益法人落語芸術協会(→link

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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